近現代史記事紹介-9
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私が気に入った新聞コラム。 龍谷大学教授・李相哲氏
そろそろ「過去史」からの解放を
2024/9/3 08:00 李 相哲 オピニオン
産経新聞正論に、龍谷大学教授・李相哲氏の「そろそろ「過去史」からの解放を」が載っており、興味を惹いたので書き起こして掲載します。
非常に興味深い見解です。
今後を注視したいと思います。
2024/09/04
李 相哲(り そうてつ、1959年9月6日 - )は、中国出身のメディア史学者。龍谷大学社会学部教授。本名は竹山相哲。1987年に来日、上智大学大学院にて博士(新聞学)学位取得。1998年に日本国籍を取得している。1959年9月6日、中国東北地方・黒竜江省に生まれる。両親は現在の韓国慶尚道出身で、1930年代に中国に移民していた、朝鮮族系中国人である。1982年7月、北京・中央民族学院(現・中央民族大学)を卒業後、中国共産党機関紙黒龍江日報(ハルビン、日刊紙)記者となる。1987年9月、留学のため渡日。1995年3月、上智大学文学研究科新聞学専攻にて博士(新聞学)学位取得。その後、上智大学国際関係研究所客員研究員となる。1998年4月、龍谷大学社会学部助教授。2005年4月、同大社会学部教授となる。
そろそろ「過去史」からの解放を
龍谷大学教授・李相哲
8月15日を韓国では「朝鮮半島に光が復した(戻った)日だ」として「光復節」と命名、大々的な記念行事を行う。日本や「過去史」(日本統治時代の出来事を指す言葉)に言及、日本を糾弾するのが伝統だが、尹錫悦大統領になってからその「伝統」が破られた。今年の「光復節」の演説で尹氏は「過去史」には触れず日本を批判しなかった。
野党は「(演説は)これ以上、日本に謝罪しなくてよいという免罪符を与えたもの」と非難、メディアは「日本の反省と責任に言及しなかったのは日本の歴史挑発に勇気を与えるもの」(京郷新聞)などと批判した。日本のメディアも「異例」と報じたが、そろそろ日韓は「過去史」から解放されてもよいのではないか。
薄れた日本統治時代の記憶
昨年の光復節でも尹氏は過去史言及や日本批判はせず、「日本はいま我々と普遍的な価値を共有し、共同利益を追求するパートナー」などと述べた。
日本に気を使ったとの指摘もあったが、大統領府は「日韓関係に自信を持っているから」と説明した。過去史や日本のことは国内政治や支持率に影響しないという自信があったという意味だ。韓国でも「過去史」への記憶が薄れているうえ、今の日本をありのまま見つめようとしている人々が増えているからだろう。
尹氏は大統領就任前から「日韓関係を政治に利用しない」(2021年11月)と言明した。今回の演説は支持率29%(韓国ギャラップ)と低迷している中で行ったことにも注目する必要がある。韓国の政治家、特に時の大統領は支持率挽回のために「反日」を利用するのが「慣習」とされるほどだったが、尹氏はこの慣習を引き継がなかった。
就任後に行った3回の「光復節」演説を見ればわかる。「日本は力を合わせるべき隣国」(22年)、「日本は経済と安保協力パートナー」(23年)、今年は演説で2回、日本に触れたが、過去史でも批判でもなかった。尹氏は「昨年のわが国の1人当たりの国民所得は初めて日本を超え、日本と(韓国)の輸出格差は過去最低を記録した」と述べたのだ。
野党や左派寄りのメディア、市民団体は「日本の植民地支配に言及しなかった、恥ずかしい、奇怪な演説」と非難し、野党・共に民主党(民主党)の李在明代表に至っては「(尹氏は)日本の歴史洗濯の共犯だ」と攻撃したが、いまのところ韓国で「反日」ムードが高まったという報道はない。
反日で高い代償払った韓国
日本が東京電力福島第1原発の処理水を海に放出する決定をしたとき、韓国の左派団体や民主党は「放出は人類に対するテロだ」(民主党「海洋水産特別委員会」)と糾弾、李代表は「韓国の領土主権を侵害する悪行、わが国民の健康に深刻な脅威を与えるもの」だと主張し、ハンガーストライキまで起こした。
韓国政府は世論に押されるかたちで昨夏から海水や水産物の4万4千回にわたる放射能検査などに1兆5千億ウォン(約1600億円)を投入した。ところが基準値に迫る検査結果は「ゼロ」で、装置で検出できないほど低い濃度だった。韓国メディアは「民主党の反日扇動で、国は1兆5千億ウォンの金を無駄にした」(24年8月「朝鮮日報」)と報じた。
このような経験を重ねた結果だろうか。元統一部長官の康仁徳氏は筆者に「最近、韓国では、日本をありのまま見つめようとする人が多くなり、反日を煽(あお)っても簡単に乗らなくなった」と語った。
背景にはソーシャルメディアの発達で必要な情報を検索できるようになり、日本を訪れ体験することも難しくなくなったことが挙げられる。「日本の水産物を食べるくらいなら青酸カリを飲む」と発言した芸能人すら、日本で寿司を堪能する写真をSNSにアップするなど韓国人の日本好きは秘密でなくなった。
昨年8月末、民主党は「汚染水放流糾弾集会」終了後に李代表をはじめ党幹部らが、刺身料理店で夕食を楽しんだことが発覚して物議を醸した(23年9月、「中央日報」)。民主党が韓国では魚を食べられなくなると煽ったのは、国民の生命安全が心配だったわけではなく、尹氏攻撃の口実に過ぎないという下心(政治利用)がリアルタイムで暴露される時代になった。
なお続く「親日」「反日」論争
だからといって韓国が「過去史」から解放され、日本との過去を気にしなくなったわけではない。今年8月15日も韓国では、「親日」と「反日」で様々なハプニングが演出された(「朝鮮日報」)。韓国プロ野球(KBO)でこの日の日本人投手の先発出場や日の丸掲揚に事前に反発が起き、回避される騒動があった。日本料理店の多くが自主的に休業したともいわれる。韓国メディアによれば「光復節に日本のビールを飲むのが適切なのか」という論争も起こった。韓国もいい加減、「過去史」から解放され自由になったらどうか。(り そうてつ)
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私が気に入った新聞コラム。 経済学者・渡辺利夫氏
「地方分権体制はなぜ強靱なのか」
産経新聞正論に、渡辺利夫氏の「地方分権体制はなぜ強靱なのか」が載っており、興味を惹いたので書き起こして掲載します。
2024/9/2 08:00 渡辺 利夫 オピニオン
なかなか面白い見解ですね。勉強になりました。
2024/09/03
渡辺利夫(わたなべ としお、1939年6月22日- )は、日本の経済学者。学位は、経済学博士。東京工業大学名誉教授、拓殖大学顧問、公益財団法人オイスカ会長。日本李登輝友の会会長。一般社団法人高齢者活躍支援協議会会長。専門は開発経済学と現在アジア経済論。山梨県甲府市生まれ。
地方分権体制はなぜ強靱なのか
拓殖大学顧問・渡辺利夫
日中の近代化はどこで分岐したのか。本欄で2回ほど論じてきたが、論点がもう1つある。
多様性育んだ「幕藩体制」
日本が世界史に登場したのは、幕末の混乱期をくぐり抜け、列強に門戸を開く一方、中央集権的な国家体制の形成に成功した明治維新によってであった。江戸時代の日本は高度に成熟した封建制度を擁し、この制度にもとづいて二百数十の藩が割拠し、各藩主により全国が分割統治されていた。徳川家が最も強力な存在であり、中央政府が徳川「幕府」として君臨し、地方政府は各藩による統治に委ねられた。この政治システムが徳川「幕藩体制」と呼ばれるゆえんである。
各藩はそれぞれ独自の習慣、学問、祭礼はもとより、固有の産業政策をもって地方物産の振興にも努めた。全国にまたがる幕藩体制の著しい多様性こそが、江戸時代日本の封建制を彩る重要な特徴であった。
明治維新が成功したのは、権力を中央に一元的に集中させてきた中国や朝鮮のような専制的な王朝国家とは対照的に、日本が権力の多元的分散を特徴とする封建制度を広範に採用していたが故である。封建制は旧体制(アンシャンレジーム)が衰退し劣化し機能不全に陥ったときに、これに代わる新体制を運営する能力をもつ人間集団を各藩の中に育んできたのである。
対照的に、中国を特徴づけてきたのは封建制ではなく、郡県制であった。全土をいくつもの郡、県に分け、郡、県を中央の直下においてその統治は中央から地方に派遣された官僚によって一元的になされるという、皇帝を頂点とする古代的な官僚政治体制が一貫して踏襲されてきた。郡県制は封建制とは対照的に、中央集権的で専制的な統治機構に他ならない。日本が封建制、中国、朝鮮が郡県制を政治統治機構としてきたことが、両者の近代化の成否を分かつ要因であった。
日中近代化の成否占う要点
地方各藩の徳川幕府からの自立性は相当に強いものであった。西南雄藩において、その傾向は著しかった。薩摩藩は島津斉彬(なりあきら)が藩主となるや、日本初の洋式艦「昇平丸」、蒸気船「雲行丸」などの造船事業、反射炉や溶鉱炉などの製鉄事業に精出し、維新後明治の殖産興業・富国強兵の原型を薩摩の地において展開した。長州藩では大村益次郎が中心となって軍事体制を整え、佐賀藩では鍋島閑叟(かんそう)により反射炉や蒸気船「凌風丸」が建造された。
西南雄藩を中心に日本の各藩でそれぞれ分散的に拡充されてきた軍事力が、倒幕の一点に凝集したときのエネルギーには巨大なものがあった。封建制の強靱(きょうじん)性は実にその多様性にある。
「西洋の衝撃」を受けて中央権力たるアンシャンレジームが動揺して事態収束能力を喪失したとき、これに代わる新たな中央権力を樹立し運営する能力をもつ「代替者」が出現するか否かが、近代化の成否を占うポイントだと私はみる。
日本では、源頼朝の時代に始まり江戸時代において成熟をみせた封建制度のもとで、この代替者が育成されてきた。封建制度を特徴づけるものは、地方分散型の権力構造である。とりわけいくつかの雄藩は政治、経済、教育、文化、軍事力において秀で、単独では中央政権を覆す力はないものの連合すれば、アンシャンレジームの代替者となることは十分に可能であった。
次代を開く人間集団供給
明治維新とは、薩長を中心とする西南雄藩が古代に淵源(えんげん)をもつ天皇を最高権威のシンボルとして アンシャンレジームに挑戦、これを転覆して文明開化と呼ばれる近代化に向けてそのエネルギーのすべてを噴出させた革命であった。
これと対照的に、中国の近代化は容易に進むことはなかった。中国は古代的で専制的な王朝の伝統を引き継いで皇帝や王という絶対的権力者を戴(いただ)き、これを官僚政治家が十重二十重に取り巻いて、「郡県制」と称される極度に中央集権的な政治システムに全土の末端までを組み込んできた。「権力資源」はすべて中央に集中し、地方には次代を担う代替者が育つ空間はほとんど存在しなかった。中央集権的な王朝国家システム、これを支えるイデオロギーの呪縛が「西洋の衝撃」を開明的に受けることを阻んだのである。王朝国家の重い、実に重たい伝統の重石(おもし)からみずからを解き放つことは不可能であった。
アンシャンレジームがアンシャンであるがゆえに劣化し衰退していくときに、これを廃して新たな正統的レジームをつくる代替者を、その国の伝統が用意していたか否か、これがポイントである。日本には代替者が確かに存在したが、中国にはこれが現れなかったのである。
中央集権か地方分権か、古くて新しいテーマだが、どちらが次代を開く人間集団をより豊かに供給するのか、問われるべき課題はここにある。(わたなべ としお)
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私が気に入った新聞コラムから学んだこと。
ああ日本の8月よ 被爆地に生まれた僕が言いたいこと
シンガー・ソングライター さだまさし氏
2024/8/18 08:00 オピニオン コラム
私の好きな音楽家です。
敗戦の日8/15に今の日本を考えると、さだまさし氏の見解は大いに共感できるところがあります。
やはり教育が一番大事ですよね。100年後の日本の姿を明確に示し、夢を語ってくれる人が指導者になってくれるまで待つというのも悲しいことですね。
2024/08/19
さだ まさし(本名:佐田 雅志〈読み同じ〉、1952年4月10日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、タレント、小説家。國學院大學、東京藝術大学客員教授。フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「案山子」「関白宣言」「道化師のソネット」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。トークの軽妙さは大きな魅力とされており、それで自身のコンサートのお客を楽しませ、またテレビ・ラジオ番組のパーソナリティーやMCなどとしても活躍。小説家としても活動し、『解夏』『眉山』などの作品を発表している。
ああ日本の8月よ
被爆地に生まれた僕が言いたいこと
シンガー・ソングライター さだまさし
日本人は1年の内、8月だけしか平和について考えない、と皮肉を言われるが、テレビ番組を観ていれば成る程と思う。普段は現実逃避のように温度の低い笑いで埋め尽くしている癖に原爆忌、終戦の日になると突然、真顔で反省やらお詫びやらを口にする。これでは建前にしか見えないだろう。
広島の8月6日午前8時15分、長崎の8月9日同11時2分という投下時刻まで覚えろとは言わないが、被爆地生まれとしては、せめて日にちくらいは知っていてほしい。僕は原爆投下から6年8カ月後に長崎で生まれた。当時市内の新生児は全員、「検査すれども治療せず」で悪名高いABCC(原爆傷害調査委員会)で検査された。
結果は何でもなかったが僕の背中の痣が原因で、母は僕を連れて3度通ったという。子供の頃、原爆の爪痕はまだまだ町中に残っていたし、大好きな叔母や叔父が被爆者だったので、原爆を落とした国が今は日本を守っているという理屈が全く理解出来なかった。
子供の正義感は正直なもので、外国に自分の国を守って貰うという矛盾を呑み込めなかったのだが、これは今でもだ。いや、もう子供じゃないから事情は嫌になる程判っているので何も今更急に米軍を追い出せだの、自主独立などとは恥ずかしくて言えない。その辺の心はほぼ折れた。日本国首都の制空権の一部を米軍が握っていることは大いに遺憾であるが、正論が通らない事情も理解している。
ああ大人になるってやだね。一般人でも悩むのだから世界も相手にせにゃならん国政政治家は大変だろう。日米安保条約に於ける地位協定ひとつ触るのが怖いという肩身の狭い哀れな事情は大いに同情するが情けない。しかも経済経済とお金の話ばかりするから国民の心根はずんずん卑しくなる。
政治に求めるものは銭勘定だけではない筈。罪を犯してもお金が欲しいなどと若者の心がお金に対して曲がって育つのも、肉親が殺し合う悲惨な社会も、家庭教育も含めた教育の貧しさの証明ではないのか。尤も親になる人をきちんと教育できなければ家庭教育もへったくれもないが。
国の100年後を思うのであれば、最も大切なものは教育であるべきだろう。次が外交・安全保障で、経済は3番目だと思う。目先の政局ばかりに汲々としているから、日本が既に2等国以下に成り下がったことにも、この凋落が始まったのも取り戻せるのも全ては人々の「心」からだ、ということにも気づかないのだろう。100年後の日本の姿を明確に示し、夢を語ってくれる人が指導者になってくれるまでこの生命はとても持たんぁ。ああ愛しき日本の8月よ。
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引き続き敗戦の日に、日米関係を調べていたら、YouTube長谷川幸洋Tonighに
面白い記事が載っていましたので、書き起こして掲載します。
2024/08/18
日本は米国とどんな関係を目指すのか
長谷川幸洋Tonight記事 2024/08/17
全く同感です。勉強になりました。
長谷川 幸洋(はせがわ ゆきひろ、1953年〈昭和28年〉1月18日 - )は、日本のジャーナリスト、元新聞記者。元東京・中日新聞論説副主幹。千葉県生まれ。千葉県立千葉高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業後、1977年中日新聞社入社、1987年、東京新聞経済部へ異動。1989年、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院 (SAIS) で国際公共政策修士 (MIPP)。東京本社外報部、ブリュッセル支局長、1999年に論説委員に就任し、2010年、論説副主幹に就任。2017年3月1日付人事にて、副主幹から外れた。2018年3月31日付で定年退職し、以後はフリーランスのジャーナリストとして活動。2009年、第18回山本七平賞を受賞。
日本は米国とどんな関係を目指すのか 長谷川幸洋
日本の自主独立、対米自立について
振り返ってみれば
日本はアメリカの傘に寄りかかっているのはよくない。
「自主独立すべき」を主張してきたのは、ほとんど日本の保守派ではなく、左翼の論壇の皆さんです。
これは評価したい。実績は認めたい。しかし結論は保守と左翼は分かれる。
保守系の論壇の方は、事実関係を掘り下げて調べていない。ここが問題である。
■長谷川氏の見解
日米同盟の枠組みを持って、対米自立、核武装すべき。
■日米安保条約の正体は「日米地位協定」
外務省解説、文章で残している。
●アメリカは日本のどこにでも米軍基地を作れる。
■以下が関係の本
●外務省機密文書・日米地位協定の考え方 増補版 琉球新聞社
これは素晴らしい本です。
●日米不平等の源流 琉球新聞社
●日米地位協定入門 前泊博盛著 琉球新聞論説委員
●日米地位協定の考え方 琉球新報
■これまでの日本の政権は何をやって来たのか?が良くわかる本は
●戦後史の正体 孫崎亨著 外務省のOB・・結論が違うが評価はよい。
●日米同盟の正体 孫崎亨著・・2009年
戦後の日本の位置付けを決めた、
アメリカの国務長官ダレス氏の3原則・絶対条件とは
●日本を西側の民主主義陣営に置く
●日本には攻撃能力を持たせない
●日本のどこにでも米軍基地を置ける
マイケル・グリーンの研究論文から転用している。
孫崎氏も、アメリカの核の傘はないと言っている。2009年
長谷川氏の見解
戦後アメリカは、日本をそのように位置付けてきた。
今までは日本はそれでよいと判断。経済だけに専念した。
しかし、それも終わりに近づいている。アメリカの国力が低下した。
核の傘はない。日本は対米自立すべき。核を保有すべき。
問題は政治家が「決める、決めない」ではなく、国民に選択肢が示されないことだ。
政治家も官僚もそれを考えない。マスコミはもっと考えていない。
したがって日本全体で選択肢がない。
いまや普通の人が政治家に突き付けている。
日本は国家としての選択肢が示されていない。
メディアは語るべきであるが、役所のポチ。議論がない。
この国はどうなっているのか?
骨太の議論がない。
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敗戦の日8月15日に、ネットで色々な記事を見ていて、「現代新書」デジタル版の中に、矢部宏治氏の面白い記事が載っていましたので、転記して掲載します。記事が順不同ですが、そのまま掲載します。
2024/08/17
今までなんとなく感じていた「戦後日本の状態」の違和感が少し晴れたような内容でした。
当時の日米同盟の密約、日米地位協定等の内容が徐々に公になってきていますで、政府もマスコミも、もう少し事実関係をオープンにして、国民が理解するべきことだと感じます。今のままだと国民の選択肢が全くない状態です。
保守の政治家も、もっと勉強して欲しいですね。
戦後日本の、アメリカ植民地支配
矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』より
2024/08/15転記
矢部 宏治(やべ こうじ、1960年[2] - )は、日本の作家・実業家。兵庫県出身。慶應義塾大学文学部卒業。株式会社博報堂マーケティング部を経て、1987年より書籍情報社代表。著書に累計17万部を突破した『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(以上、集英社インターナショナル)、『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること――沖縄・米軍基地観光ガイド』(書籍情報社)など、共著書に『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社)。企画編集に「〈知の再発見〉双書」シリーズ、J.M.ロバーツ著『図説 世界の歴史』(全10巻)、「〈戦後再発見〉双書」シリーズ(以上、創元社)がある。
戦後日本の、アメリカ植民地支配
矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』より
2023.03.02
じつは「日本」は「完全な属国」だった…
日本が米国と交わした「ヤバすぎる3つの密約」
日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
大きな歪みの根底
ここまでは、問題を調べ始めてから、四年ほどでわかったことでした。
つまり「戦後日本」という国が持つ大きな歪みの根底には、日米のあいだで結ばれた「法的な関係」が存在する。しかしその姿が、日本人にはまったく見えていない。
最大の問題は、そもそも一九五二年に日本の占領を終わらせた「サンフランシスコ平和条約」が、じつは普通の平和条約ではなかったことだ。
たしかにそれは、「政治」と「経済」においては占領状態を終わらせた「寛大な」条約だったが、逆に「軍事」に関しては、安保条約と連動するかたちで日本の占領を法的に継続し、固定するためのものだった。
その結果、「戦後日本」という国は二一世紀になってもなお、
「軍事面での占領状態がつづく半分主権国家」
であり続けている──。
多くの著者のみなさんとの共同研究により、そのことはほぼ証明できたと思っています。これまで精神面から語られることの多かった「対米従属」の問題を、軍事面での法的な構造から、論理的に説明できるようにもなりました。
けれども最後までどうしてもわからなかったのは、
「なぜ日本だけが、そこまでひどい状態になってしまったのか」
ということでした。
「戦争で負けたから」という答えは明らかな間違いです。
世界中に戦争で負けた国はたくさんある。けれども現在の日本ほど、二一世紀の地球上で、他国と屈辱的な従属関係を結んでいる国はどこにも存在しないからです。
そのことは第三章で紹介した、イラクが敗戦後にアメリカと結んだ地位協定の条文を読めば、誰にでもすぐにわかってもらえるはずです。
「密約の歴史について書いてくれ」
その点について、ずっとモヤモヤしたものが残っていました。もうひとつウラの構造があることはたしかなのですが、それが何かが、よくわからなかったのです。
そんなある日、
「密約の歴史について書いてくれませんか」
という出版社からのオファーがあったので、よろこんで引き受けることにしました。以前からずっと、調べてみたいと思っていたことがあったからです。
じつは戦後の日本とアメリカのあいだには、第五章で書いた、
「裁判権密約」
「基地権密約」
のほかに、もうひとつ重要な密約のあることが、わかっていたのです。それが、
「指揮権密約」
です。その問題について一度歴史をさかのぼって、きちんと調べてみたいと思っていたのです。
指揮権密約とは、一言でいってしまえば、
「戦争になったら、自衛隊は米軍の指揮のもとで戦う」
という密約のことです。
「バカなことをいうな。そんなものが、あるはずないだろう」
とお怒りの方も、いらっしゃるかもしれません。
しかし日米両国の間に「指揮権密約」が存在するということは、すでに三六年前に明らかになっているのです。その事実を裏付けるアメリカの公文書を発見したのは、現在、獨協大学名誉教授の古関彰一氏で、一九八一年に雑誌『朝日ジャーナル』で発表されました。
それによれば、占領終結直後の一九五二年七月二三日と、一九五四年二月八日の二度、当時の吉田茂首相が米軍の司令官と、口頭でその密約を結んでいたのです。
「指揮権密約」の成立
次ページに載せたのは、その一度目の口頭密約を結んだマーク・クラーク大将が、本国の統合参謀本部へ送った機密報告書です。前置きはいっさいなしで、いきなり本題の報告に入っています。
「私は七月二三日の夕方、吉田氏、岡崎氏〔外務大臣〕、マーフィー駐日大使と自宅で夕食をともにしたあと、会談をした」
まずこの報告書を読んで何より驚かされるのは、米軍の司令官が日本の首相や外務大臣を自宅に呼びつけて、そこで非常に重要な会談をしていたという点です。占領はもう終わっているのに、ですよ。
これこそまさに、独立後も軍事面での占領体制が継続していたことの証明といえるようなシーンです。しかも、そこに顔を揃えたのは、日本側が首相と外務大臣、アメリカ側が米軍司令官と駐日大使。まるで日米合同委員会の「超ハイレベル・バージョン」とでもいうべき肩書きの人たちなのです。
「私は、わが国の政府が有事〔=戦争や武力衝突〕の際の軍隊の投入にあたり、指揮権の関係について、日本政府とのあいだに明確な了解が不可欠であると考えている理由を、かなり詳しく説明した」
つまり、この会談でクラークは、
「戦争になったら日本の軍隊(当時は警察予備隊)は米軍の指揮下に入って戦うことを、はっきり了承してほしい」
と吉田に申し入れているのです。そのことは、次の吉田の答えを見ても明らかです。
「吉田氏はすぐに、有事の際に単一の司令官は不可欠であり、現状ではその司令官は合衆国によって任命されるべきであるということに同意した。同氏は続けて、この合意は日本国民に与える政治的衝撃を考えると、当分のあいだ秘密にされるべきであるとの考えを示し、マーフィー〔駐日大使〕と私はその意見に同意した」
戦争になったら、誰かが最高司令官になるのは当然だから、現状ではその人物が米軍司令官であることに異論はない。そういう表現で、吉田は日本の軍隊に対する米軍の指揮権を認めたわけです。こうして独立から三ヵ月後の一九五二年七月二三日、口頭での「指揮権密約」が成立することになりました。
徹底的に隠された取り決め
ここで記憶にとどめておいていただきたいのは、吉田もクラークもマーフィーも、この密約は、
「日本国民に与える政治的衝撃を考えると、当分のあいだ秘密にされるべきである」
という意見で一致していたということです。
結局その後も国民にはまったく知らされないまま、これまで六〇年以上経ってしまったわけですが、考えてみるとそれも当然です。
外国軍への基地の提供については、同じく国家の独立を危うくするものではありますが、まだ弁解の余地がある。基地を提供し駐留経費まで日本が支払ったとしても、それで国が守れるなら安いものじゃないか──。要するに、それはお金の問題だといって、ごまかすことができるからです。
しかし、軍隊の指揮権をあらかじめ他国が持っているとなると、これはなんの言い訳もできない完全な「属国」ですので、絶対に公表できない。
そもそも日本はわずか五年前(一九四七年)にできた憲法9条で、「戦争」も「軍隊」もはっきりと放棄していたわけですから、米軍のもとで軍事行動を行うことなど、公に約束できるはずがないのです。
ですから、一九五一年一月から始まった日本の独立へ向けての日米交渉のなかでも、この軍隊の指揮権の問題だけは、徹底的に闇のなかに隠されていきました。
この「戦時に米軍司令官が日本軍を指揮する権利」というのは、アメリカ側が同年二月二日、最初に出してきた旧安保条約の草案にすでに条文として書かれていたもので、その後もずっと交渉のなかで要求し続けていたものでした。
しかし、日本国民の目にみえるかたちで正式に条文化することはついにできず、結局独立後にこうして密約を結ぶことになったのです。
その後アメリカは、占領中の日本につくらせた「警察予備隊」を、この指揮権密約にもとづいて三ヵ月後、「保安隊」に格上げさせ(一九五二年一〇月一五日)、さらにその二年後には二度目の口頭密約(一九五四年二月八日:吉田首相とジョン・ハル大将による)を結び、それにもとづいて「保安隊」を「自衛隊」に格上げさせ(同年七月一日)、日本の再軍備を着々と進めていきました。
それほど重大な指揮権密約ではありましたが、古関氏が雑誌に発表したときは、とくに反響らしい反響もなく、ただ編集部に、
「そんな誰でも知っていることを記事に書いて、どうするんだ」
などという嫌みったらしいハガキが、一枚来ただけだったそうです。
その二年前(一九七九年)にやはり公文書が発掘された「天皇メッセージ」(昭和天皇が一九四七年九月、側近を通してGHQに対し、沖縄の長期占領を希望することなどを伝えた口頭でのメッセージ)のときもそうだったようですが、問題が大きければ大きいほど、スルーされる。あまりにも大きな問題に対しては、そういうシニカルな態度で「なんでもないことだ」と受け流すしか、精神の安定を保つ方法がないということなのでしょうか。
しかしすでに述べたとおり、この密約を結んだ日米両国の要人たちは、それが日本の主権を侵害する、いかに重大な取り決めであるかをよくわかっていたわけです。
事実私も、戦後の日米関係のなかで最も闇の奥に隠された、この「指揮権密約」の歴史をたどることで、それまでわからなかった日米間の法的な関係の全体像を理解することが、ようやくできるようになったのです。
さらに連載記事<なぜ日本はこれほど歪んだのか…ヤバすぎる「9つのオキテ」が招いた「日本の悲劇」>では、日本を縛る「日米の密約」の正体について、詳しく解説します。
2023.11.09
なぜ日本はこれほど歪んだのか…
ヤバすぎる「9つのオキテ」が招いた「日本の悲劇」
なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。
そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。
『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』では、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
はじめに
それほどしょっちゅうではないのですが、私がテレビやラジオに出演して話をすると、すぐにネット上で、
「また陰謀論か」
「妄想もいいかげんにしろ」
「どうしてそんな偏った物の見方しかできないんだ」
などと批判されることが、よくあります。
あまりいい気持ちはしませんが、だからといって腹は立ちません。
自分が調べて本に書いている内容について、いちばん「本当か?」と驚いているのは、じつは私自身だからです。
「これが自分の妄想なら、どんなに幸せだろう」
いつもそう思っているのです。
事実か、それとも「特大の妄想」か
けれども本書をお読みになればわかるとおり、残念ながらそれらはすべて、複数の公文書によって裏付けられた、疑いようのない事実ばかりなのです。
ひとつ、簡単な例をあげましょう。
以前、田原総一朗さんのラジオ番組(文化放送「田原総一朗 オフレコ!」)に出演し、米軍基地問題について話したとき、こんなことがありました。ラジオを聞いていたリスナーのひとりから、放送終了後すぐ、大手ネット書店の「読者投稿欄」に次のような書き込みがされたのです。
★☆☆☆☆〔星1つ〕 UFO博士か?
なんだか、UFOを見たとか言って騒いでいる妄想ですね。先ほど、ご本人が出演したラジオ番組を聞きましたが(略)なぜ、米軍に〔日本から〕出て行って欲しいというのかも全く理解できないし、〔米軍〕基地を勝手にどこでも作れるという特大の妄想が正しいのなら、(略)東京のど真ん中に米軍基地がないのが不思議〔なのでは〕?
もし私の本を読まずにラジオだけを聞いていたら、こう思われるのは、まったく当然の話だと思います。私自身、たった7年前にはこのリスナーとほとんど同じようなことを考えていたので、こうして文句をいいたくなる人の気持ちはとてもよくわかるのです。
けれども、私がこれまでに書いた本を一冊でも読んだことのある人なら、東京のまさしく「ど真ん中」である六本木と南麻布に、それぞれ非常に重要な米軍基地(「六本木ヘリポート」と「ニューサンノー米軍センター」)があることをみなさんよくご存じだと思います。
そしてこのあと詳しく見ていくように、日本の首都・東京が、じつは沖縄と並ぶほど米軍支配の激しい、世界でも例のない場所だということも。
さらにもうひとつ、アメリカが米軍基地を日本じゅう「どこにでも作れる」というのも、残念ながら私の脳が生みだした「特大の妄想」などではありません。
なぜなら、外務省がつくった高級官僚向けの極秘マニュアル(「日米地位協定の考え方 増補版」1983年12月)のなかに、
○ アメリカは日本国内のどんな場所でも基地にしたいと要求することができる。
○ 日本は合理的な理由なしにその要求を拒否することはできず、現実に提供が困難な場合以外、アメリカの要求に同意しないケースは想定されていない。
という見解が、明確に書かれているからです。
つまり、日米安全保障条約を結んでいる以上、日本政府の独自の政策判断で、アメリカ側の基地提供要求に「NO」ということはできない。
そう日本の外務省がはっきりと認めているのです。
北方領土問題が解決できない理由
さらにこの話にはもっとひどい続きがあって、この極秘マニュアルによれば、そうした法的権利をアメリカが持っている以上、たとえば日本とロシア(当時ソ連)との外交交渉には、次のような大原則が存在するというのです。
○ だから北方領土の交渉をするときも、返還された島に米軍基地を置かないというような約束をしてはならない。*註1
こんな条件をロシアが呑むはずないことは、小学生でもわかるでしょう。
そしてこの極秘マニュアルにこうした具体的な記述があるということは、ほぼ間違いなく日米のあいだに、この問題について文書で合意した非公開議事録(事実上の密約)があることを意味しています。
したがって、現在の日米間の軍事的関係が根本的に変化しない限り、ロシアとの領土問題が解決する可能性は、じつはゼロ。ロシアとの平和条約が結ばれる可能性もまた、ゼロなのです。
たとえ日本の首相が何か大きな決断をし、担当部局が頑張って素晴らしい条約案をつくったとしても、最終的にはこの日米合意を根拠として、その案が外務省主流派の手で握り潰されてしまうことは確実です。
2016年、安倍晋三首相による「北方領土返還交渉」は、大きな注目を集めました。なにしろ、長年の懸案である北方領土問題が、ついに解決に向けて大きく動き出すのではないかと報道されたのですから、人々が期待を抱いたのも当然でしょう。
ところが、日本での首脳会談(同年12月15日・16日)が近づくにつれ、事前交渉は停滞し、結局なんの成果もあげられませんでした。
その理由は、まさに先の大原則にあったのです。
官邸のなかには一時、この北方領土と米軍基地の問題について、アメリカ側と改めて交渉する道を検討した人たちもいたようですが、やはり実現せず、結局11月上旬、モスクワを訪れた元外務次官の谷内正太郎国家安全保障局長から、
「返還された島に米軍基地を置かないという約束はできない」
という基本方針が、ロシア側に伝えられることになったのです。
その報告を聞いたプーチン大統領は、11月19日、ペルー・リマでの日ロ首脳会談の席上で、安倍首相に対し、
「君の側近が『島に米軍基地が置かれる可能性はある』と言ったそうだが、それでは交渉は終わる」
と述べたことがわかっています(「朝日新聞」2016年12月26日)。
ほとんどの日本人は知らなかったわけですが、この時点ですでに、一ヵ月後の日本での領土返還交渉がゼロ回答に終わることは、完全に確定していたのです。
もしもこのとき、安倍首相が従来の日米合意に逆らって、
「いや、それは違う。私は今回の日ロ首脳会談で、返還された島には米軍基地を置かないと約束するつもりだ」
などと返答していたら、彼は、2010年に普天間基地の沖縄県外移設を唱えて失脚した鳩山由紀夫首相(当時)と同じく、すぐに政権の座を追われることになったでしょう。
「戦後日本」に存在する「ウラの掟」
私たちが暮らす「戦後日本」という国には、国民はもちろん、首相でさえもよくわかっていないそうした「ウラの掟」が数多く存在し、社会全体の構造を大きく歪めてしまっています。
そして残念なことに、そういう掟のほとんどは、じつは日米両政府のあいだではなく、米軍と日本のエリート官僚のあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としているのです。
私が本書を執筆したのは、そうした「ウラの掟」の全体像を、
「高校生にもわかるように、また外国の人にもわかるように、短く簡単に書いてほしい」
という依頼を出版社から受けたからでした。
また、『知ってはいけない』というタイトルをつけたのは、おそらくほとんどの読者にとって、そうした事実を知らないほうが、あと10年ほどは心穏やかに暮らしていけるはずだと思ったからです。
なので大変失礼ですが、もうかなりご高齢で、しかもご自分の人生と日本の現状にほぼ満足しているという方は、この本を読まないほうがいいかもしれません。
けれども若い学生のみなさんや、現役世代の社会人の方々は、そうはいきません。みなさんが生きている間に、日本は必ず大きな社会変動を経験することになるからです。
私がこれからこの本で明らかにするような9つのウラの掟(全9章)と、その歪みがもたらす日本の「法治国家崩壊状態」は、いま沖縄から本土へ、そして行政の末端から政権の中枢へと、猛烈な勢いで広がり始めています。
今後、その被害にあう人の数が次第に増え、国民の間に大きな不満が蓄積された結果、「戦後日本」というこれまで長くつづいた国のかたちを、否応なく変えざるをえない日が必ずやってきます。
そのとき、自分と家族を守るため、また混乱のなか、それでも価値ある人生を生きるため、さらには無用な争いを避け、多くの人と協力して新しくフェアな社会をいちからつくっていくために、ぜひこの本を読んでみてください。
そしてこれまで明らかにされてこなかった「日米間の隠された法的関係」についての、全体像に触れていただければと思います。
「リアル陰謀論」
本というのは不思議なもので、書き手としては、自分が大切だと思ったことをいろいろと並べて書いているわけですが、読者の方の興味というのは、かなり特定の問題にピンポイントで集中することが多い。
そうした読者からの反応を聞いてはじめて、
「ああ、自分が書いた本の核心はここにあったのか」
と気づかされることが多いのです。
私がこれまでに書いた本でいうと、第一章でお話しした「横田空域」と、本章で扱う「日米合同委員会」の問題が、圧倒的にみなさんの関心をひくようです。
しかし、よく考えてみるとそれも当然の話で、もしも私が数年前に誰かから、
「日本の超エリート官僚というのはね、実は月に二度ほど、都内にある米軍基地などで在日米軍のトップたちと秘密の会議をしているんだ。それで、そこで決まったことは国会に報告する義務も、外部に公表する義務もなく、事実上ノーチェックで実行することができる。つまりその秘密会議は、日本の国会よりも憲法よりも、上位の存在というわけさ」
などといわれたら、確実に、
「コイツはおかしいから、つきあうのはやめよう」
と思ったはずです。
「これが陰謀論者というやつか」
とも思ったことでしょう。
けれどもそういう「リアル陰謀論」とでもいうべき世界が本当に実在することが、いまでは広く認知されるようになりました。
それが日米合同委員会です。
米軍の「リモコン装置」
日米合同委員会というのは、その研究の第一人者であるジャーナリストの吉田敏浩氏の表現を借りれば、
「米軍が「戦後日本」において、占領期の特権をそのまま持ち続けるためのリモコン装置」
ということになります。
占領時代、米軍の権力はまさにオールマイティ。日本の国内法など、何も関係なく行動することができました。どこでも基地にして、いつでも軍事演習をして、たとえ日本人を殺したりケガをさせても罪に問われない。
そうした圧倒的な特権を、日本が独立したあとも、「見かけ」だけを改善するかたちで以前と変わらず持ち続けたい──そうしたアメリカの軍部の要望を実現するために、「戦後日本」に残されたリモコン装置が日米合同委員会だというわけです。
この組織のトップに位置する本会議には、日本側6人、アメリカ側7人が出席します。月にだいたい2回、隔週木曜日の午前11時から、日本側代表が議長のときは外務省の施設内で、アメリカ側代表が議長のときは米軍基地内の会議室で開かれています。
おそらく横田基地からなのでしょう。木曜日の午前11時前に、軍用ヘリで六本木にある米軍基地(「六本木ヘリポート」)に降り立ち、そこから会議室がある南麻布の米軍施設(「ニューサンノー米軍センター」)に続々と到着する米軍関係者の姿を、2016年12月6日に放映された「報道ステーション」が捉えていました。
日米合同委員会に激怒していた駐日首席公使
この日米合同委員会でもっともおかしなことは、本会議と30以上の分科会の、日本側メンバーがすべて各省のエリート官僚であるのに対し、アメリカ側メンバーは、たった一人をのぞいて全員が軍人だということです。
アメリカ側で、たった一人だけ軍人でない人物というのは、アメリカ大使館の公使、つまり外交官なのですが、おもしろいことにその公使が、日米合同委員会という組織について、激しく批判している例が過去に何度もあるのです。
有名なのは、沖縄返還交渉を担当したスナイダーという駐日首席公使ですが、彼は、米軍の軍人たちが日本の官僚と直接協議して指示を与えるという、日米合同委員会のありかたは、
「きわめて異常なものです」
と上司の駐日大使に報告しています。
それは当たり前で、どんな国でも、相手国の政府と最初に話し合うのは大使や公使といった外交官に決まっている。そして、そこで決定した内容を軍人に伝える。それが「シヴィリアン・コントロール(文民統制)」と呼ばれる民主国家の原則です。
ですから、スナイダーが次のように激怒しているのは当然なのです。
「本来なら、ほかのすべての国のように、米軍に関する問題は、まず駐留国〔=日本〕の官僚と、アメリカ大使館の外交官によって処理されなければなりません」
「ところが日本における日米合同委員会がそうなっていないのは、ようするに日本では、アメリカ大使館がまだ存在しない占領中にできあがった、米軍と日本の官僚とのあいだの異常な直接的関係が、いまだに続いているということなのです」(「アメリカ外交文書(Foreign Relations of the United States)」(以下、FRUS)1972年4月6日)
日本という「半分主権国家」
このように当のアメリカの外交官にさえ、「占領中にできあがった異常な関係」といわれてしまう、この米軍と日本のエリート官僚の協議機関、日米合同委員会とは、いったいなぜ生まれたのでしょう。
詳しくは本書の後半でお話ししますが、歴史をさかのぼれば、もともと占領が終わる2年前、1950年初頭の段階で、アメリカの軍部は日本を独立させることに絶対反対の立場をとっていました。すでにソ連や中国とのあいだで冷戦が始まりつつあったからです。
しかし、それでもアメリカ政府がどうしても日本を独立させるというなら、それは、
「在日米軍の法的地位は変えない半分平和条約を結ぶ」(陸軍次官ヴォーヒーズ)
あるいは、
「政治と経済については、日本とのあいだに「正常化協定」を結ぶが、軍事面では占領体制をそのまま継続する」(軍部を説得するためのバターワース極東担当国務次官補の案)
というかたちでなければならない、と考えていたのです(「アメリカ外交文書(FRUS)」1950年1月18日)。
この上のふたつの米軍の基本方針を、もう一度じっくりと読んでみてください。
私は7年前から、沖縄と本土でいくつもの米軍基地の取材をしてきましたが、調べれば調べるほど、いまの日本の現実をあらわす言葉として、これほど的確な表現はないと思います。
つまり「戦後日本」という国は、
「在日米軍の法的地位は変えず」
「軍事面での占領体制がそのまま継続した」
「半分主権国家」
として国際社会に復帰したということです。
その「本当の姿」を日本国民に隠しながら、しかもその体制を長く続けていくための政治的装置が、1952年に発足した日米合同委員会なのです。
ですからそこで合意された内容は、国会の承認も必要としないし、公開する必要もない。ときには憲法の規定を超えることもある。その点について日米間の合意が存在することは、すでにアメリカ側の公文書(→72ページ「安保法体系の構造」の日米合同委員会の項を参照)によって明らかにされているのです
「対米従属」の根幹
こうして日米合同委員会の研究が進んだことで、「日本の対米従属」という戦後最大の問題についても、そのメカニズムが、かなり解明されることになりました。
もちろん「軍事」の世界だけでなく、「政治」の世界にも「経済」の世界にも、アメリカ優位の状況は存在します。
しかし「政治」と「経済」の世界における対米従属は、さきほどの軍部の方針を見てもわかるように、
「あくまで法的関係は正常化されたうえでの上下関係」であって、
「占領体制が法的に継続した軍事面での関係」
とは、まったくレベルが違う話なのです。
私たち日本人がこれから克服しなければならない最大の課題である「対米従属」の根幹には、軍事面での法的な従属関係がある。
つまり、「アメリカへの従属」というよりも、それは「米軍への従属」であり、しかもその本質は精神的なものではなく、法的にガッチリと押さえこまれているものだということです。
そこのところを、はっきりとおさえておく必要があるのです。
私自身、いろいろ調べた末にこの日米合同委員会の存在にたどりついたとき、
「ああ、これだったのか」
と目からウロコが落ちるような気持ちがしました。それまで見えなかった日米関係の本質が、はっきり理解できるようになったからです。
「これが法治国家か」
本当に大切なことは、驚くほど簡単な言葉で表現できる。
みなさんは、そういう経験をされたことはないでしょうか。
私はすでにお話ししたとおり、2010年6月に起きた鳩山政権の崩壊をきっかけに、沖縄に渡って米軍基地問題を調べはじめました。
そのわずか九ヵ月後には福島の原発事故が起こり、沖縄だけでなく、本土でも、
「これが法治国家か」
と思うような、信じられない光景をいくつも目にすることになりました。
20万人もの罪のない人たちが家や畑を失い、避難先の仮設住宅で「これからどうすればいいのか」と悩みつづけている一方で、事故を起こした2011年の年末には、ボーナスをもらってヌクヌクと正月の準備をする東京電力の社員たち。
不思議だ、不思議だと思いながら、なにをどうすればいいか、まったくわからない日々が続きました。
そんなある日、耳を疑うような事実を知ったのです。
それは米軍・普天間基地のある沖縄県宜野湾市の市長だった伊波洋一さん(現参議院議員)が、講演で語っていた次のような話でした。
「米軍機は、米軍住宅の上では絶対に低空飛行をしない。それはアメリカの国内法がそうした危険な飛行を禁止していて、その規定が海外においても適用されているからだ」
いちばん驚いたこと
「?????」
一瞬、意味がよくわかりませんでした。
私は沖縄で米軍基地の取材をしている最中、米軍機が市街地でギョッとするほどの低空飛行をする場面に何度も遭遇していたからです。軍用ヘリコプターが巻き起こす風で、民家の庭先の木が折れるほど揺れるのを見たこともありますし、マンションの六階に住んでいて、
「操縦しているパイロットといつも目が合うのさー」
と言っていた人にも会いました。
実際、丘の上から普天間基地を見ていると、滑走路から飛び立った米軍機やヘリが、陸上、海上を問わず、島の上空をどこでもブンブン飛びまわっているところが見える。
「それが、米軍住宅の上だけは飛ばないって、いったいどういうことなんだ?」
しかも伊波氏の話によれば、そうした米軍の訓練による被害から守られているのは、人間だけではないというのです。アメリカでは、たとえばコウモリなどの野生生物や、砂漠のなかにある歴史上の遺跡まで、それらに悪影響があると判断されたときには、もう訓練はできない。計画そのものが中止になる。
なぜなら、米軍が訓練をする前には、訓練計画をきちんと公表し、環境への影響評価を行うことが法律で義務づけられているため、アメリカ国内では、人間への悪影響に関して米軍の訓練が議論されることはもうないというのです。
いや、いや、ちょっと待ってくれ。おかしくなりそうだ──。
どうして自国のコウモリや遺跡にやってはいけないことを日本人にはやっていいのか。
それは人種差別なのか?
それとも、よその国なら、何をやってもいいということなのか?
いや、そんなはずはない。
なぜなら、たとえば沖縄本島北部の高江では、ノグチゲラという希少な鳥の繁殖期には、ヘリパッドの建設工事が数ヵ月にわたって中止されているからだ。
「日本人」の人権にはまったく配慮しない米軍が、「日本の鳥」の生存権にはちゃんと配慮している。
これはいったいどういうことなのか……。
ただアメリカの法律を守っているだけ
この問題は長いあいだ頭のなかをグルグルまわっているだけで、答えはなかなか見つかりませんでした。しかし、かなりあとになってから、アメリカ国内の米軍基地における飛行訓練の航跡図を見て、
「ああ、そういうことか」
と納得する瞬間があったのです。
つまり、アメリカ国内の米軍基地というのは、たとえばカリフォルニア州のミラマー海兵隊基地などは、沖縄の普天間基地にくらべると約20倍の面積があって、基本的には基地の敷地の上空だけで低空飛行訓練ができるようになっている。しかも、もともと基地自体が山のなかにあるから、住宅地への影響はいっさいない。
海上に出て長距離の飛行訓練をするときも、もちろん住宅地のうえは避けて、渓谷沿いのルートを海まで飛んでいく。離陸用の滑走路は、そのため渓谷の方向をむいている。
つまり、われわれ日本人は、
「米軍住宅の上だけは飛ばないなんて、あまりにもひどいじゃないか」
と米兵たちに対して大きな怒りを感じるわけですが、それは違っていた。
彼らはただ、アメリカの法律を守っているだけなのです。
米軍住宅に住むアメリカ人たちも、環境に配慮した本国の法律によって、海外にいても人権が守られているだけなので、私たちから非難される理由は何もない。しかも、アメリカのそのすばらしい環境関連法は、自国の動植物や遺跡だけでなく、なんと日本の鳥(希少生物)まで対象としているというのだから、徹底している。
問題は、ではなぜ日本人の人権だけは守られないのか、ということだ。
結局、憲法が機能していないということだ
そこまで考えてきて思い出したのが、第1章で触れた「航空法特例法」でした。
「米軍機には、〔最低高度や飛行禁止区域を定めた〕航空法第6章の規定は適用しない」
という法律です。
日本には、国民の人権を守るための立派な憲法があり、危険な飛行を禁止する立派な航空法も存在する。しかしそのせっかくの条文が、米軍に関しては「適用除外」になっている。
もちろん、どんな特例法があろうと、国民の人権が明らかに侵害されていたら、憲法が機能してそれをやめさせなければならないはずだ。ところが現実はそうなっていない。
つまり在日米軍に関しては、
「結局、憲法が機能していないということなんだ」。
そう思った瞬間、それまでまさに混沌状態にあったいろいろな思いが、スッと整理されて、目の前が急に開けたような気がしたのです。
「憲法さえきちんと機能すれば、沖縄の問題も福島の問題も、ほとんど解決することができるんじゃないのか」
いま考えると、それは当たり前の話で、どうしてもっと早く気づかなかったんだろうと思うのですが、そのことにはっきり気づくまで、丸々二年かかりました。
でも、そこからはスラスラと謎が解けていったのです。
人権が守られている人間と守られていない人間
「Q:米軍機はなぜ、アメリカ人の家の上は飛ばないのか」
「A:落ちると危ないから」
「Q:東京電力はなぜ、東京で使う電力を東京ではつくらなかったのか」
「A:原発が爆発すると危ないから」
つまり同じ島(沖縄本島)のなかで、人権が守られている人間(米軍関係者)と、守られていない人間(日本人)がいる。
また、同じ地域(東日本)のなかで、人権が守られている人間(東京都民)と、守られていない人間(福島県民)がいる。
沖縄の米軍機の低空飛行の場合、その差別を正当化しているのは、航空法の適用除外条項でした。
そう思って福島の問題を調べていくと、やはりあったのです。「適用除外」条項が。
日本には環境汚染を防止するための立派な法律があるのに、なんと放射性物質はその適用除外となっていたのです(2011年時点)。
「大気汚染防止法 第27条1項 この法律の規定は、放射性物質による大気の汚染及びその防止については、適用しない」
「土壌汚染対策法 第2条1項 この法律において「特定有害物質」とは、鉛、砒素、トリクロロエチレンその他の物質(放射性物質を除く)(略)」
「水質汚濁防止法 第23条1項 この法律の規定は、放射性物質による水質の汚濁及びその防止については、適用しない」
これらの条文を読んだとき、私が2年前から疑問に思い続けてきた、
「なぜ福島で原発被害にあったみなさんが、正当な補償を受けられないのか」
という問題の法的な構造が、沖縄の米軍基地問題とほとんど同じであることがわかりました。つまり現在の日本には、国民の人権を「合法的」に侵害する不可解な法的取り決め(「適用除外条項」他)が、さまざまな分野に存在しているということです。
驚愕の返答
事実、福島県の農家のAさんが環境省を訪れ、原発事故で汚染された畑について何か対策をとってほしいと陳情したとき、担当者からこの土壌汚染対策法の条文を根拠に、
「当省としましては、この度の放射性物質の放出に違法性はないものと認識しております」
という、まさに驚愕の返答をされたことがわかっています(「週刊文春」2011年7月7日号)。
2023.11.09
「戦後日本」のヤバすぎる現実…「東京上空」に存在する「奇妙な空域」の「衝撃的な正体」
日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。
そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。
『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』では、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
「戦後日本」という国
おかしい。
不思議だ。
どう考えても普通の国ではない。
みなさんは、ご自分が暮らす「戦後日本」という国について、そう思ったことはないでしょうか。
おそらくどんな人でも、一度はそう思ったことがあるはずです。アメリカ、中国に次ぐ世界第三位の経済大国であり、治安のよさや文化水準の高さなど、誇るべき点もたしかに多い私たちの国、日本。しかしその根っこには、どう隠そうとしても隠しきれない、とんでもない歪みが存在しています。
たとえば私が本を書くたびに触れている「横田空域」の問題です。
じつは日本の首都圏の上空は米軍に支配されていて、日本の航空機は米軍の許可がないとそこを飛ぶことができません。いちいち許可をとるわけにはいかないので、JALやANAの定期便はこの巨大な山脈のような空域を避けて、非常に不自然なルートを飛ぶことを強いられているのです。
とくに空域の南側は羽田空港や成田空港に着陸する航空機が密集し、非常に危険な状態になっています。
また緊急時、たとえば前方に落雷や雹の危険がある積乱雲があって、そこを避けて飛びたいときでも、管制官から、
「横田空域には入らず、そのまま飛べ」
と指示されてしまう。
6年前に、はじめてこの問題を本で紹介したときは、信じてくれない人も多かったのですが、その後、新聞やテレビでも取り上げられるようになり、「横田空域」について知る人の数もかなり増えてきました。
それでもくどいようですが、私は今回もまた、この問題から話を始めることにします。
なぜならそれは、数十万人程度の人たちが知っていればそれでいい、という問題ではない。少なくとも数千万単位の日本人が、常識として知っていなければならないことだと思うからです。
エリート官僚もよくわかっていない「横田空域」
もちろんこの「横田空域」のような奇怪なものが存在するのは、世界を見まわしてみても日本だけです。
では、どうして日本だけがそんなことになっているのでしょう。
私が7年前にこの事実を知ったときに驚いたのは、日本のエリート官僚と呼ばれる人たちがこの問題について、ほとんど何も知識を持っていないということでした。
まず、多くの官僚たちが「横田空域」の存在そのものを知らない。ごくまれに知っている人がいても、なぜそんなものが首都圏上空に存在するかについては、もちろんまったくわかっていない。
これほど巨大な存在について、国家の中枢にいる人たちが何も知らないのです。
日本を普通の独立国と呼ぶことは、とてもできないでしょう。
「いったい、いつからこんなものがあるのか」
「いったい、なぜ、こんなものがあるのか」
その答えを本当の意味で知るためには、この本を最後まで読んでいただく必要があります。じつは私自身、右のふたつの疑問について、歴史的背景も含めて完全に理解できたのは、わずか1年前のことなのです。
世田谷区、中野区、杉並区の上空も「横田空域」
まず、たしかな事実からご紹介しましょう。
横田空域は、東京都の西部(福生市ほか)にある米軍・横田基地が管理する空域です。
いちばん高いところで7000メートル、まさにヒマラヤ山脈のような巨大な米軍専用空域が、日本の空を東西まっぷたつに分断しているのです。
ここで「米軍基地は沖縄だけの問題でしょう?」と思っている首都圏のみなさんに、少し当事者意識をもっていただくため、横田空域の詳しい境界線を載せておきます(書籍版に掲載)。
東京の場合、横田空域の境界は駅でいうと、上板橋駅、江古田駅、沼袋駅、中野駅、代田橋駅、等々力駅のほぼ上空を南北に走っています。高級住宅地といわれる世田谷区、杉並区、練馬区、武蔵野市などは、ほぼ全域がこの横田空域内にあるのです。
この境界線の内側上空でなら、米軍はどんな軍事演習をすることも可能ですし、日本政府からその許可を得る必要もありません。2020年(米会計年度)から横田基地に配備されることが決まっているオスプレイは、すでにこの空域内で頻繁に低空飛行訓練を行っているのです(富士演習場~厚木基地ルートなど/オスプレイの危険性については『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』第2章で詳述します)。
むやみに驚かすつもりはありませんが、もしこの空域内でオスプレイが墜落して死者が出ても、事故の原因が日本側に公表されることはありませんし、正当な補償がなされることもありません。
そのことは、いまから40年前(1977年9月27日)に同じ横田空域内で起きた、横浜市緑区(現・青葉区)での米軍ファントム機・墜落事件の例を見れば、明らかです。
このときは「死者二名、重軽傷者六名、家屋全焼一棟、損壊三棟」という大事故だったにもかかわらず、パラシュートで脱出した米兵2名は、現場へ急行した自衛隊機によって厚木基地に運ばれ、その後、いつのまにかアメリカへ帰国。裁判で事故の調査報告書の公表を求めた被害者たちには、「日付も作成者の名前もない報告書の要旨」が示されただけでした。
こうした米軍が支配する空域の例は、日本国内にあとふたつあります。中国・四国地方にある「岩国空域」と、2010年まで沖縄にあった「嘉手納空域」です
巨大な空域に国内法の根拠はない
「横田空域」と「岩国空域」という、米軍が管理するこのふたつの巨大な空域に関して、私たち日本人が、もっとも注目すべきポイントがあります。
それは空域の大きさではありません。
私たちが本当に注目しなければならないのは、
「この横田と岩国にある巨大な米軍の管理空域について、国内法の根拠はなにもない」
という驚くべき事実なのです(「日米地位協定の考え方 増補版」)。
「自国の首都圏上空を含む巨大な空域が、外国軍に支配(管理)されていて、じつはそのことについての国内法の根拠が何もない」
いったいなぜ、そんな状況が放置されているのでしょうか。
さらに連載記事<なぜ日本はこれほど歪んだのか…ヤバすぎる「9つのオキテ」が招いた「日本の悲劇」>では、日本を縛る「日米の密約」の正体について、詳しく解説します。
本記事の抜粋元『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)では、私たちの未来を脅かす「9つの掟」の正体、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」など、日本と米国の知られざる関係について解説しています。ぜひ、お手に取ってみてください。
■知ってはいけない 隠された日本支配の構造
◆本書のおもな内容◆
第1章 日本の空は、すべて米軍に支配されている
第2章 日本の国土は、すべて米軍の治外法権下にある
第3章 日本に国境はない
第4章 国のトップは「米軍+官僚」である
第5章 国家は密約と裏マニュアルで運営する
第6章 政府は憲法にしばられない
第7章 重要な文書は、最初すべて英語で作成する
第8章 自衛隊は米軍の指揮のもとで戦う
第9章 アメリカは「国」ではなく、「国連」である
追記 なぜ「9条3項・加憲案」はダメなのか
☆☆☆
■その他面白そうな、日米同盟の実態の本は、以下です。そのうち読みたいですね。
日米不平等の源流 琉球新報
日米地位協定の考え方 琉球新報
日米地位協定入門 前泊博盛著
戦後史の正体 孫崎亨著
日米同盟の正体 孫崎亨著
☆
ネットに、12日のイーロン・マスク氏との対談時の、ドナルド・トランプ氏の公約が載っていましたので、書き起こして掲載します。
2024/08/16
内容を見ると、今のアメリカの現状を考えると、全てごもっともと、納得できる内容ばかりでした。
日本の総裁選では、自民党の政治家もこれくらいはやって、国民に提示して欲しいと思ってしまいます。
ま~、今の自民党じゃ無理ですね。
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ドナルド・トランプ氏の公約 イーロン・マスク対談にて
トランプ陣営は月曜日、ドナルド・トランプ大統領が月曜日夜(12日)にXのCEOイーロン・マスク氏と会見する予定であることを見越して、11月に2期目に当選した場合の第45代大統領のアメリカに対する20の主要な公約を含む広告をプラットフォーム上で展開し始めた。
この公約リストは、今後4年間の大統領在任期間におけるトランプ氏のビジョンをまとめたものであり、これまでに同陣営が発表した政策アジェンダの中でも最も簡潔なものの1つだ。トランプ大統領の政策目標リストは、民主党とハリス陣営が、トランプ氏の実際のアジェンダはヘリテージ財団が立ち上げた大統領移行プロジェクトであるプロジェクト2025であると主張しようとしている中で発表された。トランプ氏はプロジェクト2025を繰り返し否定し、アジェンダ47、そして現在の20の核となる公約こそが、自分が選挙活動で上げているものだと主張している。
トランプ大統領の20の主要な公約は以下の通り。
1.国境を封鎖し移民犯罪を阻止せよ
2.アメリカ市場最大の強制送還作戦を実行する
3.インフレを終わらせ、アメリカを再び手頃な価格にする
4.アメリカを圧倒的に世界最大のエネルギー生産国にしましょう!
5.アウトソーシングをやめ、米国を製造大国にしよう
6.労働者への大幅減税、チップへの課税なし
7.憲法、権利章典、言論の自由、宗教の自由、武器の保有と携帯の権利を含む基本的 自由を守る
8.第三次世界大戦を防ぎ、ヨーロッパと中東に平和を回復し、国全体を覆う巨大なアイアンドームミサイル防衛シールドを構築する・すべてアメリカ製
9.アメリカ国民に対する政府の武器化を終わらせる
10.移民犯罪の蔓延を阻止し、外国の麻薬カルテルを壊滅させ、ギャングの暴力を撲滅し、暴力犯罪者を刑務所へ収監する
11.ワシントンDCを含む都市を再建し、再び安全で清潔で美しい都市にする
12.我が国の軍隊を強化し、近代化し、疑いなく世界で最も強力で力強い軍隊にする
13.米ドルを世界の準備通貨として維持する
14.退職年齢の変更を含め、削減なしで社会保障とメディケアを守るために戦う
15.電気自動車の義務化を撤回し、コストと負担の大きい規制を削減する
16.批判的人種理論、過激なジェンダーイデオロギー、その他の不適切な人種的、性的、 政治的コンテンツを子供たちに押し付ける学校への連邦政府の資金援助を削減する
17.女性のスポーツから男性を排除する
18.ハマス支持の過激派を国外に追放し、大学のキャンパスを再び安全で愛国的な場所にしましょう
19.当日投票、有権者身分証明、投票用紙、市民権証明など、選挙の安全を確保します
20.新たな記録的な成功レベルで達成することで国を団結させる
トランプ大統領がアメリカ国民に掲げる20の核心的な約束は成功への道であり、
11月5日に近所の人や家族、友人にトランプ大統領とヴァンズ上院議員に投票するよう
勧める人が使うべき重要な論拠である。
記事ソース:DC Enquirer
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最近、新聞コラムで学んだこと
巡りくる敗戦の日 裏千家前家元・千玄室
2024/08/11
敗戦の日、終戦の日、正しい歴史認識を伝えることは非常に大事ですね。
改めて認識させられます。
千 玄室(せん げんしつ、1923年(大正12年)4月19日 - )は、茶道裏千家前家元15代汎叟宗室。斎号は鵬雲斎。若宗匠時代は宗興。現在は大宗匠・千玄室と称する。「玄室」の名は、裏千家4代目の仙叟宗室が宗室襲名前に玄室と名乗っており、これに因んで12代直叟宗室が隠居した際に玄室を名乗ったことに由来する[要出典]。本名は千 政興。京都大学大学院特任教授・大阪大学大学院客員教授として、伝統芸術研究領域における指導に当たるほか、外務省参与(2019年3月31日まで)、ユネスコ親善大使、日本・国連親善大使、日本国際連合協会会長、日本オリンピック委員会名誉委員、日本会議代表委員、日本馬術連盟会長、京都サンガF.C.取締役などを務めている。
巡りくる敗戦の日 裏千家前家元・千玄室
原爆資料館に外国人の長い列 また敗戦の日が巡りくる
今年も8月15日が巡ってくる。終戦記念日といわれる日であるが、私にとってはいまなお敗戦記念日である。実際、サンフランシスコにおいて1951(昭和26)年9月8日にやっと日本の平和条約が締結されるまで、日本に終戦は来ていなかったのである。
終戦から79年、もはや歴史上の史実との認識しか持たぬ若者が多くなった。
アメリカで高校生に質問すると、広島や長崎に原爆を投下したことによって早く戦争が終わった、との答えが返ってくることが多い。高校生に限らず大人でも、いまだにそう公言するのには驚くしかない。
戦争体験者は戦地での体験を家族にさえ多くを語ろうとしてこなかったが、昭和、平成、令和と元号が変わり、歳を重ねるとともに戦争の記憶が薄れていくことを危惧して重い口を開き始めた。私自身も70歳近くになったころ、戦死していった仲間のことを伝えなくてはと思うようになった。
しかし、皆が高齢になり、いつまで伝え続けることができるのかと危惧していたなか、戦争体験を聞き.取り、しっかり次世代へ残そうとする大学生や高校生が活動を始めたと、いろいろなところで耳にする。本当に頼もしく感じることだ。
この5月に広島での講演の折、広島平和記念資料館(原爆資料館)の前を通りかかったが、外国の方々のグループが、長い時間がかかりそうな列に並んでまで見学しようとしていた。人間は人から話を聞くことも大切ではあるが、実際に目で見て肌で感じることによって自分のものとすることができるのである。日本人は当然として、G7サミットで各国の首脳が献花に訪れたことで話題になったからかもしれぬが、いろいろな国からの訪問者に、しっかりと原爆の恐ろしさ知ってほしいと願うものだ。
日本は島国であり、ヨーロツパやアジア大陸などのように地続きで隣国へ行けないため、他国に本土を侵略された歴史をもたない。
先の大戦のときも、本土上陸だけは阻止するためにあらゆる術が考えられていた。唯一上陸され、陸上戦をされた沖縄の皆様の犠牲を思うとき、いたたまれぬ思いに駆られる。私も最後は特別攻撃隊に編入され、鹿児島・串良の基地から沖縄戦へ出撃するはずであった。直前の待機命令で得た今の命である。何時も私は両肩に、進発していった仲間たちの思いを感じている。出ていくときに「靖国で待っているぞ」と言った声も耳奥に残っている。靖国神社参拝についてはいろいろなご意見もあろう。しかし、純粋に家族を守りたい、日本が良い国になってほしいと願って、いまなお沖縄近くの海底に眠る人々のいることを、忘れてほしくはないのである。
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三島由紀夫自決日記公開
三島由紀夫自決を見届けた元陸自隊員の日記が、産経新聞に公開されましたので、書き起こして掲載します。
三島由紀夫自決 見届けた元陸自隊員の日記公開
「右手の中指を…」「二太刀で首切れた」
2024/7/21 10:00 ライフ 学術・アート
歴史に残る出来事でした。
1970年(昭和45年)私が20歳の時で、アルバイト先のテレビに釘付けでみた記憶があります。
2024/07/22
三島由紀夫は死の4カ月前の昭和45年7月7日、産経新聞に寄稿したテーマ随想「私の中の25年」の中で、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と日本の将来を憂えている。
今の日本の状態を照らし合わせると、非常に考えさせる内容でした。
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三島由紀夫自決 見届けた元陸自隊員の日記公開
「右手の中指を…」「二太刀で首切れた」
昭和45年11月25日、作家の三島由紀夫=当時(45)=が東京・市谷の陸上自衛隊施設に立てこもって自刃した事件を巡り、現場で間近に居合わせた元隊員が当時の一部始終をつづった日記があることが分かった。現在は病床にある元隊員に代わり親族が産経新聞の取材に応じ、日記を初めて公開するとともに、本人から伝え聞いた生々しい描写を代弁。あの日、何が起きたのかを国民が思い返すきっかけにしてほしいと訴えた。
「11月25日 水曜日 晴」
《11月25日 水曜日 晴》。陸上自衛隊市ケ谷駐屯地(東京都新宿区)にあった東部方面総監部で、益田兼利(ました・かねとし)総監の秘書的な役割を担う「業務室」勤務だった磯邊順蔵さん(85)。もともと筆まめな性格で、日々の出来事をノートに記していたが、この日は分量が圧倒的に多い。
すでに日本を代表する作家として確固たる地位を築いていた三島が、益田総監を人質に取って総監室に監禁。バルコニーから自衛隊員を前に、憲法改正に向けた「クーデター」を呼びかけたのち、割腹自殺するという、前代未聞の事件が起きた。
当時31歳の2曹だった順蔵さんの日記には、三島と、三島が結成した民間防衛組織「楯(たて)の會(かい)」のメンバー4人の計5人が総監室を訪れた午前11時以降、5分間の出来事が以下のように記されている。
《1100 三島由紀夫氏以下5名来監する》《1102 (同僚の)木村佳枝2曹と、自分の2人でお茶を出す》《1105 三島以下5名、益田方面総監をしばり日本刀をぬく。乱入するも右手の中指を刀で切られる。益田総監を助けに行くも人質にとられているために助けられず》
モップと消火器で応戦
「主人は益田さんを救い出そうと、業務室にあったモップを持ち出し、三島の日本刀と対峙(たいじ)したそうです。先端が切り落とされ、ただの棒のようになったモップは、今も大切に保存してあります」
東京・練馬で暮らす順蔵さんの妻、眞知子さん(74)は、夫から幾度となく当時の話を聞いた。生々しい描写は、枚挙にいとまがない。
三島らの一行はこの日、事前に益田総監との面会の約束を取って来訪していた。順蔵さんはお茶を出し終えたあと、総監室に隣接する業務室で数人の担当者と待機。だが、終了の予定時間を過ぎても誰も出てこない。誰かが小窓からのぞくと、ロープで両手両足を縛られた総監が見えた。
順蔵さんは上司に「窓ガラスを割っていいですか」と確認。近くにあったモップを携え、総監室に突撃した。銃剣道有段者だった順蔵さんだが、中にいた三島は銘刀「関の孫六」で向かってくる。何度か柄で刃を退けたものの、ついに先端部分を切断されてしまう。
順蔵さんは諦めない。いったん総監室を出たのち、今度は消火器で応戦。三島らに噴射した。乱闘により応接の机や椅子、本棚はひっくり返り、そこかしこに血も飛び散った。
最後は押し切られ、順蔵さんらは室外に再び追いやられた。そしてバルコニーに移った三島は、かの演説に臨んだ。
首元に新聞紙を…
だが、その一世一代の訴えは、隊員らからの強烈なヤジと報道のヘリコプター音によってかき消される。心が折れたのか、三島はわずか10分程度で総監室に戻り、自らの腹に刀を突き立てた。楯の會のメンバー、森田必勝が介錯(かいしゃく、苦痛軽減のため本人の首を切り落としてやること)した。
順蔵さんはその一部始終を目撃していた。日記には、こんな言葉が並ぶ。
《(三島は)自分で切腹をし、森田必勝に介錯をさせ、首を切られ死ぬ。二太刀で首が切れる》
眞知子さんによれば、順蔵さんは三島から3メートルほどの位置に座り、切腹の様子を見ていた。「三島は腹をかなり深く刺したようで、身体が前かがみになった。そのため森田は手元が狂い、1回では首を落としきれなかった。だから2度目の刀を振り下ろした、と」。
このときの心境を順蔵さんは、「『一体何が起きているのか』というような気持ちで、ただあぜんとしていた」と回顧。途中、止めに入るなどした人間がいたかは定かではないが、「最後には、益田総監も含め総監室にいた全員が、静かに様子を見守っていた」と振り返ったという。
その後、森田も自害。緊縛を解かれた益田総監は、床に転がった2人の首を机に並べて弔おうとした。三島のほうは複数回の太刀で切断面が粗くなって直立しなかったため、益田総監は順蔵さんに新聞紙を持ってくるように指示。自らの手で首の下へ、あてがった。
「合掌」。益田総監の掛け声で、一同が手を合わせた。三島らの来訪から、およそ1時間半が過ぎていた。
「親友のようだった」2人
「益田さんと三島には武士道の精神という共通項があり、互いに信頼関係を築いていたのでしょう。益田さんなりに三島に敬意を表したのではないか」。一連の益田総監の行動について、眞知子さんはそうおもんばかる。
この日以外にも、三島は自著が発刊されるたびに益田総監のもとを訪れるなどしていたといい、「2人は親友のようだった」とする関係者の証言も聞いたことがあるという。
事件は、「時代錯誤の愚挙」「常軌を逸した行動」とも評される。ただ、根底に、日本の行く末への憂いがあったことは間違いない。
順蔵さんは5年ほど前、後世への伝承のために資料整理を始めた。その最中に病に倒れ、発語が不自由となり、家族に思いを託した。眞知子さんは、「月日が過ぎ、当時を知る人は少なくなってきた。主人の日記が、事件の全体像はもちろん、関係者1人1人の思いや当時の時代背景など、細部を知るきっかけにもなれば」と期待を込めた。
以下、2015年の、三島由紀夫没後45年の産経新聞の記事です。
三島由紀夫没後45年(上)の記事
決起した元会員、貫く沈黙 肩の刀傷…今も悔いなく
2015/11/22 06:00 宮本 雅史 ライフ
日本を代表する作家、三島由紀夫=当時(45)=が、自ら結成した民間防衛組織「楯の会」の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、会員1人と自決した事件から、25日で45年になる。何が三島らを暴挙とも思える行為に駆り立てたのか。憲法改正問題などが注目されるようになった今、三島と寝食を共にした楯の会の元会員の証言などから、改めて事件の背景と現代日本へのメッセージを考える。(編集委員 宮本雅史)
無意識のうちに身体に染みついてしまったのだろうか。その男性は話題が事件に触れようとする度、何かを確認するように右肩に手をそえた。理由を問うと、一瞬、驚いた表情をしたが、何も答えず、すぐに笑顔に戻った。古賀(現荒地)浩靖(68)。三島と共に決起、自決した三島と森田必勝(まさかつ)=当時(25)=を介錯した。
■ ■
関係者から、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地内の東部方面総監室で自衛隊員ともみあった際、三島の日本刀が右肩に当たり、5針を縫う傷を負ったと聞いていた。古賀にとって刀傷は身体に刻みこまれた三島の形見なのかもしれない-。ふと、そんな思いが頭をよぎった。
「思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。日本の文化、伝統、歴史を守るために、今度の行動に出た」
古賀は裁判で詳細を語っているが、事件後は公の場から姿を消し、一切、口を閉ざしてきた。この日も、「自衛隊には誇りと栄誉を与えないといけない」「憲法は変えないといけない」と語っただけで、沈黙を通した。
穏やかな表情を崩さないため真意を読み取るのは難しいが、裁判での証言内容を考え合わせると、今も決起したことに悔いは感じられない。むしろ、自衛隊の敷地内で非合法的な行為を犯したのだから、自衛隊員の手で射殺されることを覚悟していたのではないか、射殺されることで自衛隊を目覚めさせようと考えたのではないか、とさえ感じた。ただ今も、ケガを負った自衛隊員への呵責は強く感じているようだ。心の内を明かさないため、確認できないが、沈黙を貫いているのは、その呵責と、思いを示すには行動以外になかった以上、それを言葉で表現しようにも表現できないのではないか。そんな印象を持った。
■ ■
口を閉ざしているのは、小賀正義(67)と小川正洋(同)も同じだ。
小賀は「公判で話した以上のことは話せない」と呪文のように繰り返した。ただ、事件の6日前、学生長の森田が、新宿の工事現場で段ボールに入った書類を燃やしているのを見たという。当時、森田は自決し、小賀は生き残ることが決まっていた。目の前で人生の総決算をする森田の姿に、小賀は何を感じたのか。何も語らないが、想像するだけで心が痛んだ。
小川も詳細については、楯の会の関係者にさえ、口をつぐんでいるという。
三島由紀夫は死の4カ月前の昭和45年7月7日、産経新聞に寄稿したテーマ随想「私の中の25年」の中で、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と日本の将来を憂えている。
元会員は「われわれは伝統や文化という精神世界よりも経済価値が優先される社会に憤りを感じ、道義の腐敗の根源は憲法にあると考えていた。刺し違えてでも現憲法を改正するんだと、行動を共にしてきた」と話す。
三島は事件直前の最後の打ち合わせの席でこう言っている。「今、この日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立ち上がることができないだろう。われわれが作る亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう」
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三島ら5人の決起に一番ショックを受けたのは楯の会の会員たちだった。決起は参画した会員以外には知らされていなかったからだ。
楯の会創設にかかわった伊藤好雄(69)は三島と森田必勝の自決を自宅のテレビニュースで知った。「びっくりした、の一言」だった。任意で警察の調べを受けたが、それ以降のことは何も覚えていないという。取り残されたという思いが強く、三島と森田に対し負い目を感じた。早稲田大卒業後も「自分に使命が下りてきたとき、迷わず行ける態勢を作っておこうと、就職せず、女性とも付き合わなかった」という。
伊藤は45年春、三島から呼び出されたことが今でも忘れられない。「信用できるのはだれだと思うか」。三島の問いに答えは出てこなかった。裁判でこの時期、構想を練る三島と森田が小賀正義と小川正洋に声を掛けていたこと、4番目の男が決まっていなかったことを知り、三島の問いが改めて重くのしかかった。
伊藤と親しい1期生の篠原裕(ゆたか)(68)は、月1回の定例会が行われる予定だった市ケ谷会館で異変を知った。「何も知らずに例会があると思っていた。不明を恥じるほかなかった。事件以降、楯の会の会員だったと胸を張って言えなくなった」
勝又武校(たけとし)(68)は自宅で事件を知る。「恥ずかしいから話したくない」としながらも「バルコニーでヤジられている先生の顔は今でも忘れない。悔しく、無念だったと思う。その無念さは私自身の無念だ。(一緒に)行きたかった」と語る。
死が脳裏をかすめた元会員もいる。倉持(現本多)清(68)は「二・二六事件を取り上げた『憂国』では、新婚を理由に決起から外された中尉が腹を切っている。私も結婚を控えていたから腹を切るべきだったのか、と考えた」と打ち明ける。
一方、口をつぐみ続ける小賀ら3人の心中も複雑だ。
元会員の田村司(65)が、会員の思いを監修した「火群(ほむら)のゆくへ」の中で、初代学生長の持丸博(故人)が「嵐の只(ただ)中にいた人はもちろん、同心円から少し離れた人も皆、十字架を背負っています。だから、なかなか話せないんです。みんなそれぞれ悩んで今まで生きてきた。毎日悩んでいるわけじゃないけど、なんかの拍子にずっしり重くのしかかってくる」と語っている。
■ ■
三島が学生と接触を持つようになったのは41年暮れからだ。文芸評論家の林房雄の紹介だった。
当時日本は、東京五輪開催などを受け、高度経済成長の真っただ中にあった。同時に、中国の文化大革命の影響で、左翼思想が蔓延し学園紛争が拡大、学生らはそれぞれの組織でこうした勢力に対抗していた。
倉持は「学生は必ずしも考え方が一枚岩ではなかったが、天皇を敬う心情と共産主義に対する嫌悪感は共通していた」と振り返る。
三島はその後、楯の会の前身となる「祖国防衛隊」の結成を計画。43年3月、20人の学生と陸上自衛隊富士学校滝ケ原駐屯地で体験入隊を行うが、この体験入隊を機に三島と学生との距離は急速に縮まる。
小賀は裁判で「三島先生と同じ釜の飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら(中略)心強かったし、先生の真心が感じられた。本当に信頼できる人だと思った」と証言している。
伊藤は「先生は『作家・三島由紀夫に興味のある者は楯の会に必要ない』といつも言っていた。身近な存在で、男女の恋愛ではないが、糸でつながったような気がして、先生というリーダーを得て目標が見えた」と話す。
楯の会は、何事にも率先垂範し、カリスマ性と吸引力を持つ三島を頂点に、強い信頼関係に支えられた強靱な組織に成長する。それだけに、最後まで会にとどまった会員が「自分はなぜ、選ばれなかったのか」という気持ちにさいなまれたのは当然のことだった。
■ ■
三島はこうした会員の思いを見越したかのように会員に課題を与えた。
遺書では「諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか? そこをよく考へてほしい」と述べ、小賀ら3人には「森田必勝の自刃は、自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範を垂れて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」と命じている。
元会員の多くは「命令書は今も生きている」と口をそろえるが、勝又は「自分がだらしないだけの話だが、やることをやっていないので、先生と森田さんに申し訳ない」と言う。三島らの思いは今も、日本人の喉元に刃を突きつけている。 (敬称略)
以下、2015年の、三島由紀夫没後45年の産経新聞の記事です。
三島由紀夫没後45年(下)
三島に斬られ瀕死の元自衛官「潮吹くように血が噴き出した」
2015/11/24 06:00重松 明子 宮本 雅史 ライフ
11月中旬のある日、清冽な青空のなか、東京・市谷の防衛省内の急坂を上る元自衛官の姿があった。寺尾克美(86)。
「あの日も秋晴れだったなあ」。短躯だが、がっちりとした厚い胸を張り、青空を見上げた。
45年前のあの日、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地の東部方面総監室で益田兼利総監の身柄を拘束した三島由紀夫=当時(45)=ら5人と自衛官との間で格闘になり9人が負傷、うち6人が入院した。寺尾もその一人だ。三島に銘刀「関の孫六」で腕を一太刀、背中を三太刀斬られ、瀕死の重傷を負った。
事件現場となった総監室は今、「市ケ谷記念館」として残されている。
その総監室のドアに今も残る刀傷を指さしながら、「最初に踏み込んだ自衛官が斬られたときのものだ。総監の机がこのあたりにあった。窓の外のバルコニーで三島さんが演説した」。寺尾は当時の凄惨な記憶が蘇ってくるように話した。
■ ■
寺尾は当時、会計課予算班長の3佐で41歳。総監室近くの会議室で9人の幹部自衛官と次年度予算の編成中だった。「総監が拘束されている」。急変を告げる声に、全員が「なぜ!」と飛び出した。体当たりして総監室ドアのバリケードを破った。縛られた総監の胸元に短刀を押しつける森田必勝=当時(25)=の姿が目に飛び込んできた。
「鍛えた体で目が鋭く光っていた」。隙を見て飛びかかり、押さえ込んで短刀を踏み付けると、すかさず三島が刀を構えて迫ってきた。「木刀だと思っていたから、かっこいいなと思う余裕がまだあった」
背中を斬られた。「『出ないと殺すぞ』と脅す程度で傷も浅かった。でも出ようとしなかったから、三島さんもだんだん力が入って…」。四太刀目の傷は背骨に平行して23センチ、5センチの幅に達した。短刀を奪い、医務室へ向かう途中、背中から「クジラが潮を吹くように血が吹き出した」という。
搬送先の自衛隊中央病院で、三島と森田が割腹自決したことを知らされた。
「組み合ったとき、間近で見た森田君の顔は今も忘れない。まだ、あどけなさが残っていた。後にテレビ番組に出演した森田君のお兄さんが『信奉する三島由紀夫と最後まで行動を共にしたのだから、本望、立派だったと思いたい』とおっしゃっていたが、まさにそれが全てだと思う」
森田を懐かしむように話すと、こう続けた。
「三島さんの邪魔をしたという思いがあるが、三島さんには私を殺す意思はなかったと思った。ただ、負傷したぼくらを隊員たちは見ている。そんな状況で演説したって、聞いてもらえるはずがなかった」
■ ■
陸将補で定年を迎えた寺尾は現在、講演活動を行っている。
寺尾は平成23年5月3日には愛媛県で「独立国にふさわしい憲法の制定を!三島由紀夫義挙に立ち会った者として」の演題で講演。講演会では「日本国にとり、最も重要なことは平和ボケから目覚めて独立国としての憲法を制定すること。それが三島由紀夫氏と森田必勝氏の『魂の叫び』でもある!」と書かれた文章を配布した。
総監が捕縛された上、寺尾自身も斬りつけられて瀕死の重傷を負っただけに思いは複雑だ。だが、「三島さんは戦後憲法によって日本人から大和魂が失われ、平和ボケ、経済大国ボケして、このままだと潰れてしまうと予言したが、まさに、20年後にバブルが崩壊し、心の荒廃は今も進んでいる。私は事件に立ち会った一人として、命を引き換えにした三島さんらの魂の叫びを伝えたい」と話す。そして「憲法改正が成立したとき、やっと無念が晴れて成仏できる。それまで三島さんは生きてますよ。安保法制で憲法への関心が高まっている今こそ、檄文を多くの国民に読んでほしい」と続けた。
■ ■
世界的な作家と学生の割腹自決という衝撃的な事件は国内外で大きな波紋を呼んだ。ただ、その衝撃の大きさだけが先行し、三島由紀夫や森田必勝の思いがどこまで、国民に理解されたかは疑問だが、寺尾克美のように、三島らが決起の対象として選んだ自衛隊員には大きな影響を与えた。
元会員、村田春樹(64)の著書「三島由紀夫が生きた時代」によると、決起後、自衛隊が1千人の隊員に無差別抽出でアンケートを取ったところ、7割以上の隊員が檄文に共鳴すると答えたという。自衛隊員の思いを象徴するように、三島らが体験入隊した滝ケ原駐屯地内には、三島の揮毫を彫り込んだ歌碑が建っている。
〈深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威〉
「くたかけ」は暁を告げる鶏の雅語。「公威」は三島の本名、平岡公威だ。
元自衛官の佐藤和夫(69)によると、三島の自決後、三島が楯の会の会員と体験入隊した際に残した和歌を彫りつけたものだという。
村田の著書によると、篤志自衛官が建立したもので、陸上自衛隊幹部だった楯の会の元会員は、三島が再三再四体験入隊し、その人格識見、自衛隊を愛する心を多くの隊員が知っていたからではないか、と建立理由を分析している。
■ ■
佐藤も三島らの決起に影響を受けた一人だ。慶大法学部を卒業し、商社に勤務していた佐藤は当時24歳。就職して2年目だった。
事件当日は激務が原因で肺炎にかかり入院していた。「頭をガーンと殴られたような衝撃を受けた。それまで『おもちゃの兵隊』と揶揄されていた楯の会を冷めた目で見ていたが、三島さんらに武士道と男の生きざまを見て、オレも何かせねばと目覚めた。檄文も全くその通りだと思った」
その後、商社を辞め翌春、2等陸士として自衛隊に入隊する。三島らの決起に触発され、国防に燃えて入隊してきた若者は何人もいたという。最初の配属先は、滝ケ原駐屯地だった。何かの縁を感じた。
「先輩方から40歳を過ぎている三島さんが、最後尾であえぎながら走っていたと聞き、あの高名な作家がみじめな姿をあえてさらして、と感銘を受けた」
昭和47年4月、幹部候補生学校に入校し、同年9月に会計担当として北海道南恵庭駐屯地に赴任。北部方面会計隊長となっていた寺尾に出会う。「ここでも三島さんの縁を感じました」
30代でイラン・イラク戦争が勃発。緊張感を求めて邦人保護にあたる警備官に志願し、アラブ首長国連邦へ。「国を支える喜びを実感できた」。1佐で定年退職するまで三島を批判する隊員には出会わなかった。
■ ■
事件から45年がたち、この間、三島と森田の思いを後世に伝えようと活動している組織がある。
三島森田事務所(東京都足立区)だ。楯の会2期生で初代事務局長の堀田典郷(70)は「楯の会の解散に反対だったが、解散は先生の命令だったから同意した。でも、事件を風化させないために、三島先生のために何かをしたいという気持ちから、連絡網として事務所を立ち上げた」と話す。
2代目事務局長の原田強士(56)は三島とも森田とも面識はない。事件が起きたのは小学生の時だった。20代で楯の会1期生の阿部勉(故人)と知り合い、三島の御霊のそばで、考え方を学びたいと考えるようになったという。三島森田事務所と関わって12年、事務局長になって10年になる。20年余り、三島の月命日には、三島が眠る多磨霊園の墓前で掃除を続けている。「最近、月命日にお参りに来る20代、30代の若者が少しずつ増えている。多いときで、15、16人。タバコを1本ささげる人もいる」
「恢弘せよ、という命令は永遠に続くと思う」といい、毎年11月25日には、三島の墓前で慰霊祭を行っている。
事件後に生まれた自営業、折本龍則(31)にとって、三島と森田は「もはや歴史上の人物」だ。檄文は「全くその通りだと思うし、三島先生や森田さんの考えには共感している」というが、「その通りのことが70年以上も続いて、既成事実化してしまっているのも事実で、受け入れざるを得なくなっている」と話す。その一方で「三島先生や森田さんのように、自分で納得できる生き方をしたい」という。
高校時代に三島の文章と行動力に魅せられたという女性会社員(32)は「今、楯の会があればぜひ入りたい。先生は日本の真の姿の実現を目指していた。自決は自衛隊の決起を喚起しただけではない。もちろん、あきらめの境地でもない。メッセージだ。自分たちが口火を切ることに意味があった。それだけの影響力があると分かっていた」と話した。
少しずつではあるが、三島や森田の思いが広がりつつある。
(重松明子、編集委員 宮本雅史)
別記事
三島由紀夫自決 一部始終目撃、元陸自隊員の日記全文
2024/7/21 10:00 ライフ 学術・アート
三島由紀夫自決 一部始終目撃、元陸自隊員の日記全文
昭和45年11月25日、作家の三島由紀夫が陸上自衛隊市ケ谷駐屯地(東京都新宿区)にあった東部方面総監部で自刃した。一部始終を目の当たりにした元陸自隊員の磯邊順蔵さん(85)は、当日の経緯を日記につづっていた。読み取れる範囲での全文は以下の通り。
「バカヤロー」とヤジ
《11月25日 水曜日 晴》
・1100 三島由紀夫氏以下5名来監する
・1102 (同僚の)木村佳枝2曹と、自分の2人でお茶を出す。(総監室には)三島由紀夫以下5名と(東部方面総監部の)益田兼利方面総監のみ
・1105 三島以下5名 益田方面総監をしばり日本刀をぬく。乱入するも右手の中指を刀で切られる。益田総監を助けに行くも人質にとられているために助けられず
・(※以降、時間帯記載なし) 三島由紀夫 (バルコニー前に集合させられた)1200名の市ケ谷隊員に演説するも「バカヤロー」などとヤジが飛ばされる
・自分で切腹をし、(同行した同志の)森田必勝に介錯をさせ、首を切られ死ぬ。二太刀で首が切れる
・刀の切っ先が勢いあまって(床に敷かれた)赤じゅうたんに切り込み、10センチほど切っている
「全くびっくりした事件だった」
ここまでが当日の経緯が記された部分だ。続けて、益田総監を助け出そうと、必死に三島らに対峙(たいじ)した自身の心境を振り返っている。
・とにかく益田総監にケガがあってはいけない、助けなくてはいけないと思い、冷静を保ちながらも一生懸命にやった。顔面は蒼白(そうはく)だったと人は言うけれど、気持ちは落ち着いていたつもりである
・思いきり三島とも言葉でわたりあった。一番最初に棒でチャンバラをした
・右手のケガは全治2週間程度とのことである。全くびっくりした事件だった。二度ともうあるまい。つかれた。
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私が気に入った新聞コラム。 龍谷大学教授・李相哲氏
金正恩政権の崩壊視野に対応する策を
2024/6/19 08:00 李 相哲 オピニオン 正論
産経新聞正論に、龍谷大学教授・李相哲氏の「金正恩政権の崩壊視野に対応する策を」が載っており、興味を惹いたので書き起こして掲載します。
非常に興味深い見解です。
今後を注視したいと思います。
2024/06/22
李 相哲(り そうてつ、1959年9月6日 - )は、中国出身のメディア史学者。龍谷大学社会学部教授。本名は竹山相哲。1987年に来日、上智大学大学院にて博士(新聞学)学位取得。1998年に日本国籍を取得している。1959年9月6日、中国東北地方・黒竜江省に生まれる。両親は現在の韓国慶尚道出身で、1930年代に中国に移民していた、朝鮮族系中国人である。1982年7月、北京・中央民族学院(現・中央民族大学)を卒業後、中国共産党機関紙黒龍江日報(ハルビン、日刊紙)記者となる。1987年9月、留学のため渡日。1995年3月、上智大学文学研究科新聞学専攻にて博士(新聞学)学位取得。その後、上智大学国際関係研究所客員研究員となる。1998年4月、龍谷大学社会学部助教授。2005年4月、同大社会学部教授となる。
金正恩政権の崩壊視野に対応する策を
龍谷大学教授・李相哲
この頃の北朝鮮の金正恩総書記がやっていることや打ち出す政策はどう考えてもおかしい。今年1月に開かれた最高人民会議での施政演説で「わが民族史から『統一』『協』『同族』という概念自体を排除する」とまくし立て、韓国への攻勢を強めている。ミサイル発射は常態化し、最近も韓国にゴミ付き風船を大量に送り付けるなどの挑発を繰り返す。
また、まねしていた祖父の金日成を一変させた。政権を受け継いだ直後遺体安置所を頻繁に訪問したが、今年は行っていない。ただの怠慢、intentional なのはだが、先代の陰から脱して新しい時代の到来を告げるかもしれない。
それを自信の表れと見るべきか、危機を乗り越える苦肉の策か評価が分かれそうが、筆者は、正恩体制は崩壊過程にあり、崩壊を食い止めようともしている方がいい。
正恩政権12年は失敗の連続
金正恩氏は労働党第一書記に就任した直後の2012年4月の演説で「また人民が(飢えで)ベルトを締めるようなことはさせない」と宣言し、経済の立て直しに取り組む姿勢を見せた。経済開発特区を20カ所つくると発表、海岸観光リゾート地区開発に着手したが、いつの間にか特区の話は消え、開発事業も頓挫した。
アジア最大級といわれた正恩氏肝いりの馬息嶺スキー場は、ちょうどロシア人観光客が訪れただけで閑古鳥が鳴く状態。コロナ禍の中、平壌に建てると号令をかけた総合病院も、その後どうなったのか確認できない。昨年の経済成長はマイナス6・2%を記録した。
軍事分野も危ない。軍事偵察衛星打ち上げでは4回のうち3回は失敗したが、問題なのは衛星の技術レベルだ。韓国軍によれば、「軍事的に利用できる性能は無い」。在来式武器は深刻な状態だ。ウクライナ軍によれば、北朝鮮がロシアに提供した砲弾は発砲せず、砲身内で爆発する不良品が多く、弾道ミサイルも半分以上は発射後に目標に向かって飛ばさず、空中で失踪した。
体制を支える3本柱の崩壊中
正恩体制が崩壊に入っていると思われる理由は、このような経済運営の失敗などからではない。北朝鮮体制を支えてきた「配給制度」「洗脳教育」「恐怖政治」の3本柱が崩れつつある。
まず配給制度。北朝鮮住民が体制に臣従し、首領を崇(あが)める理由は根本的にそこに配給制度のおかげだと言えます。それが崩壊した。
韓国統一部が実施した正恩政権誕生後に脱北した約6千人の調査によれば、7割が国から配給を受けている経験がない。人民軍に対しても食糧配給を減らし、兵士の半数近くが栄養失調に陥っていると報告もある。現在、軍の中核をなす20、30代の人は配給制度などの恩恵を受けず、労働党や正恩氏と連帯感はなく体制に対し忠心を持たないと言われる。
次に洗脳教育。北朝鮮政府は住民を外部の世界から孤立させるため鉄の壁を作り、情報を遮断してきた。金一族の独裁が70年以上持ちこたえた理由は、徹底した情報統制にあったからである。
政府は、保育園の頃から住民を各種組織に従属させ、首領を崇め、首領のために行動するように強要。学校、職場、家庭でも首領唯一思想(主体思想)という統治理念を注入できるシステムづくり、住民を教え、洗脳してきた。それが崩壊中だ。
携帯電話をはじめ便利なデジタル機器の普及で住民の一部を外部情報に接続する手段を見つけたからだ。出調査では8割が外部から入ってきた映像を見ていることがあると答えた。
いま、正恩政権を支える手段として残されたのは恐ろしい政治だ。いかに残忍で過酷なものかは、北朝鮮の新聞を読んでいるだけでも確認できる。北朝鮮内部に詳しい外貨獲得機関39号室の元幹部の正浩氏によれば、正恩氏は自分の指示を「絶対的」とし、貫徹し、容赦なく処刑した。スッポン養場の視察の際、スッポンの一部が死んでいることに、支配人が「停電が多いから」と言い訳をすると、その場で処刑したという例もある。
恐怖統治も効かなくなった
最近では、恐怖統治もうまく機能しないという実態が浮き彫りになった。昨年夏、水害対策を怠り、穀倉地帯の干拓地で水田の冠水を招き、食糧生産に大きな支障を来したとして金徳訓首相に罵詈(ばり)雑言を浴びせた。それを労働新聞にさせておきながら、首相を粛清しなかった。正恩氏が「太っ腹政治」をやるようになったという評価もあるが、北朝鮮のような独裁体制では、間違いなく失墜につながるだろう。
北朝鮮がロシアに急接近し、武器の代価として食糧問題やエネルギー問題が解消されたとしても、支えられてきた3つの柱が折れれば体制は崩壊する。
北朝鮮では確実に構造的変化が起きている。日本は、正恩体制の崩壊を視野に、政策と対応策を練る必要があるのではないか。(りそうてつ)
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私の気に入ったFBコラム
再びキリスト教について・・・About Christianity again!
岩崎駿介氏FBコラム 2024/06/02
私もなんとなくそう思っていました。
キーポイントはやはり「奴隷制」「植民地制」ですね。
2024/06/13
●再びキリスト教について・・・About Christianity again!
岩崎駿介氏FBコラム
キリスト教は、ヒマラヤ以西の相手を殺さねば生きていけない雨の少ない気候風土に生まれ、基本的には神の世界を外れたものは劣等とみなし、傷みつけても致し方ないとしている。キリスト教がこの世に広まったのは、背後に暴力をちらつかせながら、奴隷制、植民地制、そして現代においては競争という仕組みを押しつけて信じ込ませたからである。また、西暦0年においてイエスという人物が現れ、救世主としてあがめられたのは、彼が人を殺して苦しんでいる人々に「殺してもいいんですよ、その罪は私が背負って死にますから」と説き伏せ、人々はこれによって精神的に救われたことに起因していると思う。
仏陀の場合は、まず何よりこの世は矛盾に満ちていることを理解し、われわれはその中で最善を尽くすべきだと説き、ぎりぎりのところまで突き詰めながら、一致点を見つけることを良しとしたのです。
僕はなぜ、これほどまでににしつこくキリスト教にこだわるかといいますと、僕は28歳の時、アフリカ・ガーナ国立大学の建築科の専任講師としてアフリカ・ガーナに行き2年半生活しましたが、ガーナの人々に接し、そしてガーナ海岸の奴隷積出港であったエルミナ城(Elmina Castle)などを見てガーナの歴史を勉強し、「奴隷制」がいかに非人間的な行為かを知り、その後アフリカ・アジアの多くの国で働きましたが、アジアにおいては日本とタイを除きすべて欧米諸国の「植民地」になり、フィリピンなどは300年以上その支配下にありました。端的に言って、僕はその原因を作り出したキリスト教をどうしても許すことはできないのです。
岩崎 駿介(いわさき しゅんすけ、1937年 - )は、日本の建築家、都市デザイナー、NGO活動家。1979年、国連アジア太平洋経済社会委員会のスラム課長。1982年、筑波大学助教授。1981年から1993年まで 日本国際ボランティアセンター代表。1993年から1998年まで環境問題政策提言NPO「市民フォーラム2001」事務局長及び代表。出典はウィキペディア(Wikipedia)より
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私が気に入った新聞コラム
テント村を即決できなかった日本の行政
直球&曲球 野口健
2024/6/6 10:00 社会 地震・災害 直球&曲球能登半島地震
全くその通りですね。
なぜこういう簡単なことが日本の政治家はできないのだろうか?
2024/06/08
テント村を即決できなかった日本の行政
直球&曲球 野口健氏
5月29日、2カ月間にわたり能登半島の石川県七尾市で設営されていたテント村が梅雨入り前に閉村した。テント村を利用したボランティアは5401人。1123軒の家屋から被災ゴミを運び出した。岡山県総社市と私が代表を務めるNPO団体が連携し被災地にテント村を設置したのは2回目となる。1回目は熊本地震(平成28年)。主に車中泊をされている方々を対象に約600人を受け入れ、やはり2カ月間運営した。
今回は、ボランティアを受け入れるためのテント村となったが、「2種類」のテント村を実施してみて、災害時におけるテント村の重要性を改めて痛感した。
能登半島地震ではボランティア不足が指摘されていた。地理的なものと道路の甚大な被害が要因だった。その上、被災地に宿泊できる施設がなく、ボランティアが金沢市からバスで奥能登に入っても日帰りになるため、作業時間が2時間ほどしか取れない。
テント村の利点はテントと場所さえあれば〝一夜〟で完成することだ。ただ、今回は準備を始めてから実現するまで1カ月以上かかった。
初めに持ち掛けた奥能登地域の首長は前向きだったが、石川県が不許可。次に七尾市の茶谷義隆市長に連絡したら「ぜひ、お願いしたい」と即決したものの、またしても石川県が不許可の判断。茶谷市長は引き下がらず、すぐに馳浩県知事に直談判し、ようやくゴーサインが出た。
既に100張りのテントや寝袋などの準備を終えていたので安堵(あんど)したが、同時に無駄に時間を浪費してしまったことが残念でならなかった。
イタリアでは災害発生から数日以内にテント村を造らなければならないという法律があるそうだ。それぞれの自治体がテントや寝袋などを確保し、地震が起きれば周辺の自治体が「テント村セット」を被災地に届け、あっという間にテント村が誕生する。
災害大国・日本でも各自治体が寝袋やテントを確保し、テント村の設営場所も決めておくべきだ。平時からリアルに有事を想定しリアルに備えないと、いつかこの国は「致命傷」を負うだろう。
野口 健(のぐち けん、1973年8月21日 - )は、日本の登山家、環境活動家。亜細亜大学国際関係学部卒業。米ボストン生まれ。25歳で7大陸最高峰最年少登頂の世界記録を達成(当時)。NPO法人PEAK+AID(ピーク・エイド)代表(2020年時点)として、ヒマラヤ・富士山での清掃活動といった環境保護への取り組み、また遭難死したシェルパ族の子どもたちへの教育支援「シェルパ基金」やヒマラヤでの学校建設・森林づくり、第二次世界大戦の戦没者の遺骨収集などの社会貢献活動を行っている。
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コラムを後で読み返したい時のために、書き起こして掲載しています。
私が気に入った新聞コラム
「グリーンエネ」で日本は滅びる
キヤノングローバル戦略研究所研究主幹・杉山大志
2024/5/30 08:00 杉山 大志 オピニオン 正論
世界のエネルギー問題と、安全保障問題、日本製造業問題は、すべてつながっていますね。
政府はなぜ気が付かないのだろうか。
2024/06/02
杉山 大志(すぎやま たいし、1969年- )は、日本のエネルギー・環境研究者。地球温暖化問題およびエネルギー政策を専門とする。地球温暖化による気候危機説については懐疑派である。キヤノングローバル戦略研究所研究主幹。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特任教授。2004年より気候変動に関する政府間パネル(IPCC)評価報告書等の執筆者。産業構造審議会産業技術環境分科会 地球環境小委員会地球温暖化対策検討ワーキンググループ委員。総合資源エネルギー調査会省エネルギー・新エネルギー分科会省エネルギー小委員会工場等判断基準ワーキンググループ委員。2020年より産経新聞「正論」欄執筆陣。
「グリーンエネ」で日本は滅びる
キヤノングローバル戦略研究所研究主幹・杉山大志
日本のエネルギー政策の方向性を定めるエネルギー基本計画の政府による改定作業が始まった。年度内を目途(めど)として、2050年CO2ゼロを達成するためのグリーントランスフォーメーション(GX)産業政策を立案するという。だがそもそもの現状の認識を大きく間違えている。
世界は脱炭素ではない
政府は「世界はパリ気候協定のもと地球温暖化を1・5度に抑制する。そのために日本も脱炭素を達成する責務がある。いま脱炭素に向けて国際的な産業大競争が起きている」としている。
だがこれは本当か。たしかに多くの国はCO2ゼロを宣言している。だが実態を伴わず、本当に熱心に実施しているのは、日本と英独など幾つかの先進国だけだ。
米国はといえば、バイデン政権は脱炭素に熱心だが、議会の半分を占める共和党は猛烈に反対してきた。実際のところバイデン政権下ですら米産業は世界一の石油・ガス生産量を更に伸ばしてきた。
中国は表向きはいずれ脱炭素にすると言うが、実際は石炭火力発電に莫大(ばくだい)な投資をしている。グローバルサウスのCO2排出は増え続け、「2050年脱炭素を宣言せよ」というG7の呼びかけを端(はな)から拒否している。インドもベトナムも石炭火力発電に投資をしている。つまり世界は脱炭素に向かってなどいない。理由は簡単でエネルギー、なかんずく安価な化石燃料は経済活動の基盤だからだ。
戦争の枢軸との新冷戦
そもそも気候変動が国際的な「問題」に格上げされたのは、リオデジャネイロで1992年に開催された「地球サミット」からである。これが91年のソ連崩壊の翌年であることは偶然ではない。冷戦期は米ソ協力は不可能だった。冷戦が共産主義の敗北に終わり、民主主義が勝利し、世界平和が実現したという高揚感の中、国際協力を深め地球規模の問題を解決しようという機運が生まれた。当初から幻想に過ぎなかったが、2022年にロシアがウクライナに侵攻したことで完全に崩壊した。
いまロシアはイラン製のドローンを輸入し、北朝鮮から弾薬を購入している。中国へは石油を輸出して戦費を調達し、あらゆる工業製品を輸入している。ロシア、イラン、北朝鮮、中国からなる「戦争の枢軸」が形成され、NATOやG7は対峙(たいじ)することになった。ウクライナと中東では戦争が勃発し、台湾有事のリスクが高まっている。
この状況に及んで、自国経済の身銭を切って、高くつく脱炭素のために全ての国が協力することなど、ありえない。戦費の必要なロシアやテロを支援するイラン、その軍事費が米国に匹敵するようになった中国が、敵であるG7の要求に応じて、豊富に有する石炭、石油、ガスの使用を止めるなど、ありえない。ごく近い将来、気候変動はもはや国際的な「問題」ですらなくなるだろう。
ところが日本政府はいまだ世界平和の幻想から覚めやらず、脱炭素に邁進(まいしん)している。
日本製造業が崩壊する
政府は日本のCO2排出はオントラックだと自慢している。何のことかというと、2013年以降日本のCO2は減少を続けており、同じペースで直線的に減れば2050年にはゼロになる。
だがこの理由は何か。8割方は産業空洞化で、省エネや再エネではない。いったい政府は何を自慢しているのか。このままCO2が減りゼロになれば、産業も壊滅してゼロになる。
原子力を推進するならばよい。だが政府は規制と補助金により、再エネと、その不安定を補うための送電線と蓄電池を大量に建設し、またCO2回収貯留やアンモニア発電、水素利用も進める。これら高価な技術にGDPの3%も投じるというが、光熱費が高騰し経済は衰退する。
それでも政府はこのようなグリーン投資こそが世界の潮流だとして、欧州の例を盛んに引き合いに出す。けれども欧州は、とても日本がまねをすべき対象ではない。
欧州ではすでに産業空洞化が進行している。いま世界の製造業の29%は中国が占める。他は米国が16%、日本が7%だ。欧州勢は、ドイツは5%だが、英仏伊は各2%に過ぎない。
ナンバー1と2である中国と米国は、どちらも化石燃料を大量に利用し、安い光熱費を享受している。他方で日本以上に脱炭素に邁進しているドイツ等は極めて光熱費が高くなった。いま製造業はますます中国と米国に立地し、日本やドイツ等から逃げ出している。
次期米大統領は「たぶんトランプ」だと言われている。すると脱炭素政策は百八十度変わる。米共和党は、気候危機など存在せず、中国やロシアの方がはるかに重大な脅威だと正しく認識している。バイデン政権が推進した脱炭素政策はことごとく改廃される。
日本はどうするのか。中国そして戦争の枢軸に負けるわけにはいかない。愚かな脱炭素政策によってドイツ等と共に経済的に自滅するのを止めるべきだ。(すぎやま たいし)
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私が気に入った新聞コラム。 経済学者・渡辺利夫氏
「日中の近代化どこで分岐したか」
2024/5/20 08:00 渡辺 利夫 オピニオン 正論
産経新聞正論に、渡辺利夫氏の「日中の近代化どこで分岐したか」が載っており、興味を惹いたので書き起こして掲載します。
非常に興味深いけんかいです。
2024/05/27
渡辺利夫(わたなべ としお、1939年6月22日- )は、日本の経済学者。学位は、経済学博士。東京工業大学名誉教授、拓殖大学顧問、公益財団法人オイスカ会長。日本李登輝友の会会長。一般社団法人高齢者活躍支援協議会会長。専門は開発経済学と現在アジア経済論。山梨県甲府市生まれ。
日中の近代化どこで分岐したか
拓殖大学顧問・渡辺利夫
私たちは、他者が自分をどう認識し、評価し、対応するのかに応じて自己のありようを悟らされ自我形成をつづける。自己は自己を通じて直接的に観察されるのではない。自我は他者の目の中に宿る自己を間接的に確かめながら形成されていくものである。
岩倉使節団の欧米派遣
日本は江戸時代を通じて平穏に過ごし、成熟した社会と文化をつくりあげてきた。しかし、この平和の中で欧米列強に競合し得る産業力や軍事力を整えたわけではない。「海洋の共同体」としての日本は、四方を海で囲まれ、海に守られて外敵の存在を意識すること少なく、国内の統治に万全を期していけば平和はおのずと守られてきた。幕末まではそうであった。この時代、自己とは何かという自意識ははっきりとは形成されなかった。
アヘン戦争によって大国・清国の国土が列強により蚕食されていくさまに驚かされ、ペリーの黒船来航により強烈なインパクトを受けて、日本の指導者は新しい自我形成を余儀なくされた。列強の目に映る日本は文明国ではない。だからこそ不平等条約を押し付けられたのだ。危機から日本を脱出させるには、主権国家としての内実を整備し、みずからが文明国となるより他に道はない。そういう新しい自我が形成されたのである。
他者を正確に認識し、そこから新しい自我を生み出そうとする意志において明治維新期の指導者にはきわめて強いものがあった。そのことを端的に示すものが岩倉使節団の欧米派遣である。その全記録が随行した久米邦武による『米欧回覧実記』となって今に残る。太平洋を経て米大陸を横断し、大西洋を渡って英国に入り、欧州各国を歴訪、スエズ運河、インド洋、マラッカ海峡を抜けて日本にいたるという軌跡である。
幕末に強圧的に結ばされた不平等条約の撤回要求も、使節団の目的であった。しかし、最初の訪問国の米国で条約改正は時期尚早であることにすぐ気づかされる。条約改正には国内統治を万全なものとするための法制度の整備が急務である。欧米列強と対等なレベルの文明国とならなければ改正は困難だと悟らされたのである。
大陸横断鉄道、造船所、紡績工場、倉庫、石畳、水道、博物館、図書館、ガス灯、ホテル、アパート、総じて産業発展の重要性を悟らされ、さらには共和制、立憲君主制、徴兵制、議会制度、政党政治、宗教など文明のありとあらゆる側面について学んで帰国。使節団の実感を一言でいえば、文明国のもつ文明の圧倒的な力量であった。その後の殖産興業・富国強兵政策が、さらには憲法と議会制度が次々と実現されていったのには、岩倉使節団の体得した知恵があったからにちがいない。
清は衰退から立ち直れず
アヘン戦争での敗北、長江流域を中心に広く各地で蜂起した宗教団体の反乱の収拾過程で、王朝末期の清国は急速に衰退していった。この衰退を押しとどめんと、曽国藩、李鴻章、劉銘伝らの官僚政治家により近代化運動が展開された。「洋務運動」である。この運動の中心的なスローガンが「中体西用」であった。中国の文化、倫理、制度の根本がつまりは「体」であり、これは変えることなくむしろ「体」を補強するために西洋の学術、技術を利用すべきだとされた。「中学を体と為(な)し西学を用と為す」である。高度の技術を生み出した文明それ自体への関心は薄かった。
日清戦争での敗北は、清国に特に強い衝撃を与えた。この戦争に勝利した日本の文明開化に範を取り、議会制を基礎とする立憲君主制の樹立をめざす「変法自強」が康有為、梁啓超らによって主張された。2人の主張は光緒帝を動かし、「国是之詔(みことのり)」として発せられた。しかし、西太后を中心とする保守派による「戊戌(ぼじゅつ)の政変」と呼ばれる弾圧を受けて変法自強は挫折。康有為、梁啓超は日本への亡命を余儀なくされた。
日中近代化の分岐点はこのあたりであった。その後の清国は王朝末期の農民反乱で著しく衰弱、孫文の辛亥(しんがい)革命を経て王朝は瓦解(がかい)、新たに国民党により共和制の中華民国が成立したものの、ほどなく国共内戦に巻き込まれてこれも潰(つい)えた。内戦に勝利した共産党により1949年に中華人民共和国が成立。しかし毛沢東による苛烈な専制政治、大躍進政策の無残な失敗、狂気の文化大革命により中国が立ち直ることはなかった。
タイトロープ上を歩く独裁者
毛沢東の死去、文革の終焉(しゅうえん)の後、プラグマティスト鄧小平の登場により改革開放政策が始まり、中国経済の顕著な成長が実現されたものの、早くも2012年には中国政治の専制的権力が新しい独裁者習近平の手に落ち、中国政治の全権が習近平という一個人の手に帰することになった。おそらく習近平は、終身にわたり独裁をつづけ、圧倒的な個人的専制という実に不安定なタイトロープ(綱)の上を歩んでいくのであろう。その先の中国をどんな運命が待ち受けているのか。不気味である。(わたなべ としお)
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私が気に入った新聞コラム。 元内閣官房参与・谷口智彦氏
「ハマスに協力するべからず、日本の国益は〝イスラエル〟にあり」
2024/5/19 08:00 谷口智彦 オピニオン コラム
産経新聞正論に、谷口智彦氏の「ハマスに協力するべからず、日本の国益は〝イスラエル〟にあり」が載っており、興味を惹いたので書き起こして掲載します。
色々な見解がありますね。
2024/05/22
谷口 智彦(たにぐち ともひこ、1957年 - )は、日本の雑誌記者、ジャーナリスト。元内閣官房参与、元慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授。香川県高松市に生まれる。東京大学では法学部卒。日本朝鮮研究所にて研究員、東京精密、株式会社日経BP編集委員室主任編集委員、外務省外務副報道官、明治大学国際日本学部客員教授などを歴任。双日総合研究所では防衛・安全保障上席客員研究員に就任。第2次安倍内閣では、2013年2月より内閣官房にて内閣審議官に就任し、主として広報を担当。内閣総理大臣である安倍晋三のスピーチライター的な存在として活動する。
ハマスに協力するべからず、日本の国益は〝イスラエル〟にあり
日本が追い求めるべき国益はイスラエルとの交際にある。パレスチナとの間には、ない。ガザ地区にはさらにない。
ガザで今後必要となる民生の復興に、日本は手を貸せばよい。惻隠(そくいん)の情をもってする人道協力が必要だ。
ただし前提がある。ユダヤ人の殺戮(さつりく)・陵辱を喜ぶイスラム原理主義組織ハマスは、麻薬売買を続ける犯罪集団より、よほどたちが悪い。徹底的非軍事化を要す対象ではあっても、日本が協力すべき相手ではない。
ガザの学校はパレスチナの子供たちに、反ユダヤの感情を刷り込んだ疑いがある。運営主体は国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)であり、そんな組織にガザ復興を委ねてよしとするわけにいかない。
乗り遅れるなとばかり、間違った路線のバスに日本は乗るべきでない。
イスラエルとの間にこそ違求すべき国益があると確信し、揺るぎない国は例えばインドだ。イスラエルは独自に開発させた最先端の灌漑技術をインドへ移すことに余念がなく、両国関係を強くしてきたからだ。
イスラエルには、同国だけが提供できる、代替のきかない知と財がある。日本の国益に資すもので、同国.との関係を太くし強くすることがわが国国益にかなうゆえんだ。中東に限らず世界を見回して、これと同様に言える国など多くない。
今年4月13〜14日に起きたことを思い出してみたい。イランは約170の無人機、約120の弾道ミサイル、約30の巡航ミサイルをイスラエルに撃ち込んだ。集中の度合いたるや記録的だった。
ところがイスラエルは、弾道ミサイル数発を除きすべて領空外で破壊したという。とくに米国との協力で開発し配備した迎撃システム「アロー3」は評判通りの能力を発揮し、イランの弾道ミサイルに大気圏外で体当たりし、破壊した。目本の弾道弾防衛システムをはるかに上回る性能だ。
すさまじい軍事技術をもつ国を準同盟相手にしておく、言い換えれば、日下その可能性は低いとはいえ北京に近づかせないことが、日本の国益である。
この際の迎撃にはヨルダン、サウジアラビアが、イスラエルとの盟約に基づき加勢し、かつそのことを両国とも公にした。
事態が収まると穏健アラブ諸国とイスラエルの接近に再び勢いがつくだろう。日本が乗り遅れるべきでないのは、こちらのバスだ。
欧米の大学や街頭でユダヤ人がその出自のみを理由に敵視されるいま、日本はイスラエルを国益上重視するのだと明言するなら、世界のユダヤ人社会から好意的注目を集めよう。
世界の同胞から集めるイスラエルの情報や知識を、不断に利用したい。それも日本の国益にかなう。(たにぐち・ともひこ)
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気に入ったコラム 直球&曲球 野口健氏
正すべきは国の災害支援のあり方
直球&曲球 野口健 2024/2/22 10:00 能登半島地震直球&曲球
全くその通りですね。
政治家は何をしているのやら。
2022/02/22
正すべきは国の災害支援のあり方
直球&曲球 野口健
能登半島地震の発生から50日以上が経過した。これまでに7回、被災地に入り、避難所や在宅避難されている方々に、8666個の冬山用寝袋を届けた。それでも寝袋を求めて、朝の6時から行列ができることも。「届けても、届けても」求める人々の姿はなくならない。その悲痛な声をずっと受け止めてきた。
驚くのは、いまだに在宅避難や車中泊をされている方がとても多いということだ。「毛布1枚しか与えられず敷布団もなく、段ボールを敷いて寝ている」という被災者の声を聞き、この国は果たして先進国なのか、と悔しさのあまり、涙した。
久々に被災地から戻りテレビをつけたら国会中継をやっている。野党の追及は、自民党の派閥の政治資金パーティーの問題ばかり。「政治とカネ」への追及は理解するが、今まさにこの瞬間、国に助けを求めている多くの被災者がいるのだ。正すべきは国の災害支援のあり方であり、災害関連死をいかに防ぐかということではないのか。
被災自治体のある首長は「あの人たちは自分の意思で避難所に来ないのですから」と話していたが、実際にお会いしてみると実にさまざまな事情がある。ペットを受け入れる避難所が少なく一緒に車中泊をされている方や、家族で避難所に身を寄せたものの「家が壊れていないのになぜ狭い避難所にきたのか」と指摘され、電気も水道もない自宅に戻らざるを得なかった人もいた。その家族は真っ暗闇の中、がれきに囲まれ、一軒だけポツンと残された家で身を寄せ合うようにして過酷な生活を懸命に耐えていた。
もしも、もっと大規模な「南海トラフ地震」や「首都直下型地震」が発生したらこの国は本当に終わってしまうのではないか。
〝避難所ガチャ(当たりハズレがあるという意)〟という言葉を耳にしたが、避難所によって格差が生じてはならない。避難所に何を用意するのか、全国統一のルールを策定すべきだ。また各自治体で寝袋を用意し、備えておくこと。長期間、寒さにさらされる被災者の姿を見るのは今回で最後にすべきである。
野口 健(のぐち けん、1973年8月21日 - )は、日本の登山家、環境活動家。亜細亜大学国際関係学部卒業。NPO法人PEAK+AID(ピーク・エイド)代表(2020年時点)として、ヒマラヤ・富士山での清掃活動といった環境保護への取り組み、また遭難死したシェルパ族の子どもたちへの教育支援「シェルパ基金」やヒマラヤでの学校建設・森林づくり、第二次世界大戦の戦没者の遺骨収集などの社会貢献活動を行っている。
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気に入ったコラム 杏林大学名誉教授・田久保忠衛氏
この夏に思う
憲法改正へ新時代の志士を求む
杏林大学名誉教授・田久保忠衛氏
2023/8/16 08:00 田久保 忠衛氏 ウクライナ侵略米中対立憲法改正終戦の8月
2024年1月9日、外交評論家で杏林大名誉教授の田久保忠衛氏が90歳で亡くなりました。
田久保氏が2023年8月16日に、戦後78年を迎えて、正論に寄稿したコラムを掲載します。2024/02/11
日本にとって大事な人を亡くしましたね。
2024/02/22
田久保 忠衛(たくぼ ただえ、1933年(昭和8年)2月4日 - 2024年(令和6年)1月9日)は、日本の外交評論家、政治学者、政治活動家。杏林大学客員教授。専門は国際政治学、アメリカ外交。博士(法学)。日本会議会長、美しい日本の憲法をつくる国民の会共同代表、国家基本問題研究所副理事長、明治の日推進協議会会長などを務めました。1956年 時事通信社入社。1963年までハンブルク特派員。1969年、外信部記者。1970年、那覇支局長。1973年、ワシントン支局長。1974年、外信部次長。1980年、外信部長。1980年、ウィルソン・センター研究員(兼任)。1984年、論説委員。1984年、退社し杏林大学社会科学部(現・総合政策学部)教授。1992年、学部長。2003年、大学院国際協力研究科客員教授。
この夏に思う
憲法改正へ新時代の志士を求む
杏林大学名誉教授・田久保忠衛
戦後78年を迎えて日本は
戦後78年を迎えたが、いまの日本は国際的にどのような地点に立っているのだろうか。事実上は米国の被保護国の立場に陥っているのを忘れ、一国平和主義を正当化する頓珍漢(とんちんかん)な時代が続いた。軽武装・経済大国の戦後を肯定し、「敗(ま)けてよかった」などと世を謳歌(おうか)する雰囲気が半世紀前には日本を覆っていた。政・財・官・学・言論界まで「太った豚」の状態に満足していたのを思い出す。
国際社会に対する軍事面での貢献は念頭にない。自分勝手な看板を掲げケロリとしていた日本がすさまじい衝撃を受けたのは、1990~91年、イラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争だった。ブッシュ(父)大統領主導の下に約30カ国が参加した軍事力で簡単にイラクを打倒した。日本は石油の多くを湾岸から買い求めていたにもかかわらず、軍事的行動には加わらず、米国の要求に従って総額130億ドルを支出した。
この後、一時的ではあるが、軍事的貢献を何とかできないものかとの議論が国内で高まり、小沢一郎氏が「普通の国家」論を提唱した。日本以外の国で国軍を持つすべての国家が行っている国際貢献を日本も可能にすべしとは、誰が考えても当たり前の議論だ。
このすぐ後に、外務省高官から「ハンディキャップ国家」論が出たのも記憶に留(とど)めておいていい。日本国憲法の制限を受けている日本の貢献は資金提供しかなく、他国の何倍かのおカネを出すのはやむを得ないとの情けない根性だ。以後「普通の国」を大っぴらに口にする政治家はいなくなったが、故安倍晋三元首相は「戦後レジーム」からの脱却を唱え、国家安全保障会議(NSC)設置、安保関連法成立など「普通の国」路線を大きく前に進めた。
岸田文雄首相は国際情勢の急変に気付いていなかったのだろう。就任前の著書で繰り返し軽武装・経済大国路線を説いていた。池田勇人、大平正芳、宮澤喜一…のいわゆる宏池会がたどってきた軌跡だ。これはいまの国際社会の常識に全く反する、と当欄で私は批判を加えてきた。
何が起きるか分からない
首相は1月に訪米した際にジョンズ・ホプキンズ大学で演説し、自分は戦後の安全保障政策を大きく転換する決断をしたと明言した。いわゆる安保3文書を作成し、防衛費のGDP(国内総生産)2%への増額を決め、吉田茂による日米安保条約の締結、岸信介による安保改定、安倍氏による「平和安保法制」の策定に続く、日米同盟の強化だ―と語調を強めた。
事態は急を告げている。中国、ロシア、北朝鮮という核を保有する国を正面に据え、安全の命綱である米国の政治力低下という悪条件を抱えた国は他に存在するだろうか。
意外性も覚悟しておかなければならない。例えばトランプ前大統領は自分が大統領に再選されるならウクライナ戦争を「1日で終わらせられる」と豪語した。仮に再選が実現し、トランプ氏がウクライナ向け武装援助を打ち切るとでも発言したら一体どういう事態が生まれるか。ウクライナは悲惨な運命に見舞われ、ロシアのプーチン大統領は勢いづき、「ロシア帝国」が再現するかもしれない。
ウクライナが勝利すれば、ポーランド、バルト三国、スカンジナビア三国と組んで北大西洋条約機構(NATO)の強力な反露体制の一角を形成していくかもしれない。世界は一大転換期にある。
子供っぽい依頼心捨てよ
この数年来、気付いたことがある。危険な環境下で日本の安全をどうするかと質問された政治家には「自衛力の強化と米国の抑止力」で対応するとあっけらかんと回答する人もいる。ユーラシア大陸の脅威に対抗すると同時に、米国となんとなく距離を置く要領のいい選択が、現実の厳しい条件では許されなくなった。
「自衛力の強化と米国の抑止力」という陳腐な回答の中には米国に対する子供っぽい依頼心が依然秘められていないだろうか。「米国の衰退」を米国の有識者たちが問題にし、中国がしきりにこれを囃(はや)し立てているのに対し、日本側の態度はおとなしく静かだ。
トランプ氏が政権を担当していたとき、日米同盟の片務性に腹を立て、「米国が攻撃されているときにも日本人はソニーテレビでも観ているのだろう」と皮肉を飛ばした。日本側の安全保障担当者でこれに正面から反論した例はなかった。米国の次期大統領が誰になるか予想の限りではないが、米中間に緊張が続いている限り、同盟国への防衛力強化の要請が強まることはあっても弱まることはあるまい。
実はこれこそ日本にとって絶好のチャンスが巡ってきたと判断していい。普通の国並みの国軍をつくる跳躍台にするための憲法改正に、命懸けで取り組む新しい時代の志士は登場しないか。(たくぼ ただえ)
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気に入ったコラム 文芸批評家・新保祐司氏
異国襲来と令和の日本の危機
2024/2/19 8:00 正論 新保 祐司
モンゴル襲来から750年。
750年前の「異国襲来」を撃退したことは、日本文明にとって決定的に重要なものであった。
日本だけは一国で一文明の栄光を持っている。考え深いですね。
2024/02/20
異国襲来と令和の日本の危機
文芸批評家・新保祐司
過日、街中を散歩していたら、一枚のポスターが眼に飛び込んで来てぎょっとした。それは、大きな波がなだれ込んで来るように描かれていて、その波立つうねりは、濃い紺、緑がかった青、濁った白で彩られている。そして、「異国襲来」という白い4文字が大きく、上の方に異国、下の方に襲来と書かれている。
モンゴル襲来から750年
何かアクチュアリティのある感覚に襲われて近づいて見ると中央に「文永の役750年」とある。そうか、モンゴル襲来の1回目の文永の役は、西暦で言えば1274年であり、今年はそれから750年に当たる年なのだ。ちなみに2回目の弘安の役は、7年後の1281年である。この記念の年ということで、鎌倉歴史文化交流館(神奈川県鎌倉市)で「東アジアと鎌倉の中世」と副題されたこの企画展が開かれているのである。
一度気がついてみると、このポスターは、街のあちこちに貼られている。散歩していて、その前を通ると歴史と現在のつながりに頭がいって緊張感がもたらされる。「異国襲来」とあって、普通に言われるモンゴル襲来とは書かれていない。それがかえって、この異国がどの国か示されず、複数かもしれないという不安をもたらす。日本の危機についてあれこれ考えていると、遠い将来、我々が生きている現代を振り返って「異国襲来 東アジアと令和の日本」というような企画展が開かれることがあるのではないかという想像に引きずり込まれそうになった。
企画展の展示の中で、円覚寺のことが触れられていた。この鎌倉五山第2位の古刹(こさつ)は、弘安5(1282)年、鎌倉幕府の執権、北条時宗によって元寇(げんこう)の両軍の戦没者追悼のために無学祖元を招いて創建された。私は、2年ほど前から円覚寺の中にある弓道場に毎週通っているが、北条時宗の廟所(びょうしょ)に参ったことはなかった。時宗は、元寇の3年後、32歳の若さで死んだ。この危機に処する緊張がどれほどのものであったかが察せられる。日露戦争の後、1年も経(た)たずに児玉源太郎が54歳で、1年半で立見尚文が61歳で死去したことが思い出される。
伝統と秩序が保持され
この日本の危機を救った執権に敬意を表したくなって冬晴れの昼下がり、円覚寺の塔頭(たっちゅう)、佛日庵にある霊廟に足を運んだ。そこには、北条時宗を詠(うた)った昭憲皇后の御歌「あだ波はふたたび寄せずなりにけりかまくら山の松の嵐に」が書かれた額がかけられていた。
この750年前の「異国襲来」を撃退したことは、日本文明にとって決定的に重要なものであったことに改めて思いが到(いた)る。ハンチントンは有名な『文明の衝突』の中で、世界には文明が8つあり、西欧、中国圏、イスラム、ヒンドゥー、スラブ、ラテンアメリカ、アフリカ、そして、日本だとした。他の文明が複数の国で構成されている中にあって、日本だけは一国で一文明の栄光を持っている。
13世紀のモンゴル襲来は、近代以前における日本文明の最大の危機であった。当時、モンゴルは、東方だけではなくユーラシア大陸の大半を席巻していた。ポーランド・ドイツ連合軍とモンゴル軍が激突し、連合軍はいとも簡単に敗れる。その後、モンゴル軍が南下してオーストリアのウィーンの郊外まで迫ったとき、モンゴルの第2代皇帝が死去し引き揚げた。
もし、このとき皇帝の死がなければ(これも、「神風」と言えるかもしれない)、ポルトガルまで進軍してユーラシア大陸全土を制覇することもありえたのではないかと想像される。そうなれば、西ヨーロッパの文明の在り方は全く変わっていたはずである。日本がモンゴルを撃退し、西ヨーロッパが侵略を受けなかったことで、ユーラシア大陸の西の狭い地域と東方の海に浮かぶ日本列島で伝統と秩序が保持されたのである。
国難の到来に備え
ユーラシア大陸の中央部では、国が興っては滅亡するという荒々しい歴史が繰り返され、文明の断絶が普通であった。しかし、西ヨーロッパでは、ローマ帝国の遺産の上にキリスト教文明が展開され、日本では、義を重んじる武士道が深化していったのである。
日本がG7に入っているのは、単に経済の規模によるだけではあるまい。西ヨーロッパと日本の文明が似ている面があるからである。この相似は、古くは、梅棹忠夫の『文明の生態史観』に説かれていたことである。司馬遼太郎は『「明治」という国家』の中で、「明治の精神とプロテスタンティズムが似ている」ことを指摘し、「もともと江戸日本が、どこかプロテスタンティズムに似ていた」のだという卓見を述べている。
北条時宗の霊廟に参った後、円覚寺の境内を歩きながら、昭憲皇后の御歌を思い出していた。「あだ波」が「ふたたび寄せずなりにけり」と言えた時代が、ついに終わることがありうる国難の到来に備えなければならない。栄光の日本文明を守ることが、「異国襲来」から750年後の日本人の使命だからである。(しんぽ ゆうじ)
新保 祐司(しんぽ ゆうじ、1953年5月12日 - )は、日本の文芸評論家。宮城県仙台市出身。1977年東京大学文学部仏文科卒業。元都留文科大学副学長・教授。キリスト教や日本の伝統・文化に理解を示す。自らの評論を「文芸的な評論」とし、詩的な文章をつくることを主眼としている。2007年度の第8回正論新風賞を受賞。2017年度の第33回正論大賞を受賞した。
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気に入った新聞コラム
トランプ氏再選後押しする急進左派 世界を解く-E・ルトワック
2024/1/22 13:54 黒瀬 悦成 国際 北米 米大統領選
なるほど、アメリカの急進左派の歴史観では、米国は先住民から盗み取った土地の上に成り立つ「不法国家」であるため国境を管理する権利はなく、自らを防衛する権利もないということですか。
先住民族から取った土地は当たっていますが、しかし、このまま行ったらアメリカは無くなりますね。
2024/01/24
エドワード・ルトワック(Edward Nicolae Luttwak、1942年11月4日)は、アメリカ合衆国の国際政治学者。専門は、大戦略、軍事史、国際関係論。ルーマニアのユダヤ人の家庭に生まれ、イタリア、イギリスで育つ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学び、英国軍、フランス軍、イスラエル軍に所属した後、1975年にジョンズ・ホプキンス大学で国際関係論の博士号取得。現在、戦略国際問題研究所シニアアドバイザー。
世界を解く-E・ルトワック
トランプ氏再選後押しする急進左派
米大統領選の野党・共和党候補指名争いの火ぶたを切った中西部アイオワ州の党員集会では、返り咲きを狙うトランプ前大統領が大勝した。続く東部ニューハンプシャー州の予備選でも文句のない勝利を収めれば、トランプ氏が共和党の正式候補になる流れが早くも確定し、有権者の関心は、トランプ氏と民主党、バイデン大統領による本選での対決に移るだろう。
バイデン氏は81歳の高齢であることなどを理由に再選が危ぶまれるが、一つの政策的決断に踏み切れば、11月5日の本選で勝利できる可能性がある。大量の移民や難民が殺到しているメキシコとの国境で、国境警備隊だけでなく州兵部隊を動員して、不法移民の米国内への流入を厳格に取り締まるのだ。
移民問題に関しては前回の本欄でも言及したが、最近の新たな動きとしては、欧州諸国が相次いで国境管理を厳しくしたのに伴い、従来は欧州に向かっていた中東やアフリカ諸国のイスラム教徒の移民が中米の国々に飛び、徒歩で米国を目指すようになっている。
中南米rカリブ系の移民の特徴はヽ大抵がキリスト教徒で、数世代かけていずれは米国に同化し・ていくことだ。イスラム教徒も米社会を構成する重要な一員であるのは当然だが、多数の不法移民がイスラム圏から流入しつつある事態を前にヽ米有権者が欧州のような宗教的対立に起因する暴動やテロを懸念するのも必然的な流れといえる。
バイデン氏とは彼が新人の上院議員だ― った頃からの知り合いだ。理性的な人物で、国境問題を放置すれば再選できないことも理解している。
卜‐ランプ氏の政策は、州兵部隊らで国境を固め、不法に越境しようとする者にメキシコの米領事館で入国申請するよう促し、お引き取り願うというものだ。
バイデン氏が同じことをできないのは、民主党勢力の中で自らを「プログレッシブ(進歩派)」と称する急進左派が「盗まれた土地では誰も不法(移民)ではない」との主張を唱え、実質的な国境開放政策を後押ししているからだ。
彼らの歴史観では、米国は先住民から盗み取った土地の上に成り立つ「不法国家」であるため国境を管理する権利はなく、自らを防衛する権利もないというものだ。
こうした考えが広まっている原因の一つは大学教育の左傾化だ。
米国の大学ではこの数十年間、学長や理事、管理当局が高い報酬を得る一方、教授らの給与は年々低く抑えられてきた。資本家に搾取される労働者のような扱いを受ける教授らは思想も左翼的になり、自国の正当性を疑う言説を学生らに教え込むようになったのだ。
民主党支持勢力の一部が、昨年10月7日のイスラム原理主義組織ハマスによるイスラエル大規模攻撃に関し、イスラエルが反撃するのに反対したのも、パレスチナの地に不法に入り込んできたイスラエルに自らを守る権利はないという、米国境問題と全く同じ理屈に根差している。
バイデン政権でも急進左派思想に影響されている高官やスタッフは少なくないとみられる。国境政策の転換は彼らの大量辞任による政権の混乱につながる恐れもあり、簡単には決断できない。
バイデン氏はトランプ氏の再選阻止に向け、先の大統領選で同氏が選挙結果を覆そうとしたなどとして罪に問われた4つの刑事裁判の行方に期待をかける。特にトランプ氏が南部ジョージア州での選挙結果を覆そうと州政府に圧力をかけたとされる事件の裁判は、同氏を有罪にする可能性が比較的高いとみられていた。
ところが、同氏を起訴した民主党系の女性地方検事が、不倫関係にあるとみられる弁護士を問題の裁判の特別検察官として70万ドル(約1億400万円)で雇い入れた疑惑がトランプ氏側から提起され、裁判自体が迷走する恐れが強まってきた。
バイデン氏は1期目の実績として経済再建を誇示するが、有権者には実感として伝わっていない。
急進左派が第2次トランプ政権の誕生を後押ししている。これが現在の皮肉な状況なのだ。(聞ぎ手 黒瀬悦成)
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気に入った新聞書評コラム ジャーナリスト・古森義久氏
『慰安婦性奴隷説をラムザイヤー教授が完全論破』
評・古森義久(ワシントン駐在 客員特派員)
2024/1/21 08:50 古森 義久 ライフ 本 国際 北米 朝鮮半島
『慰安婦性奴隷説をラムザイヤー教授が完全論破』
J・マーク・ラムザイヤー著 藤岡信勝、山本優美子編訳 藤木俊一、矢野義昭、茂木弘道訳
正当な論文ですね。
米国学界、とくに日本やアジアの研究分野の人たちからの迫害は、信じられない。
政治が絡むとこうなるのか?
2024/01/22
古森 義久(こもり よしひさ、1941年〈昭和16年〉3月11日 - )は、日本のジャーナリスト。麗澤大学特別教授。産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員。一般社団法人ジャパンフォワード推進機構特別アドバイザー。国際問題評論家。国際教養大学客員教授。ジョージタウン大学「ワシントン柔道クラブ」で指導経験がある柔道家。
『慰安婦性奴隷説をラムザイヤー教授が完全論破』
評・古森義久(ワシントン駐在 客員特派員)
期限付き契約を立証
慰安婦問題では2007年7月31日は日本の国家や国民への汚辱の日だった。同盟国の米国の連邦議会下院が「日本の政府や軍はアジア各地の女性を集団的に強制連行し、20万人を日本軍の性的奴隷とした」という虚構の決議を採択したからだった。
民主党多数の同下院で中国や韓国さらに米国学界の左傾反日派と結託したマイク・ホンダ議員が主導した虚偽の主張が通用してしまったのだ。
その時点でこの書が紹介するラムザイヤー教授の研究論文が認知されていれば、そんな汚辱は起きなかっただろう。本書はハーバード大学ロースクールの同教授が、慰安婦とされた女性たちが日本の公娼制度を基礎とした高額な賃金支払いを前提とする民間での任意の期限付き商業契約だったことを立証した、複数の論文を紹介している。同教授自身、日本やアジアでの貧困が不幸な売春を生んだことへの同情を示しながらも、日本の政府や軍が組織的に連行や強制をした事実はなかった点を強調している。
だから本書は日本の国家国民へのおぞましい冤罪(えんざい)、そして汚辱を改めて晴らす第一級資料でもあるのだ。
だがさらに衝撃的なのは、ラムザイヤー教授自身への米国学界、とくに日本やアジアの研究分野の人たちからの迫害である。同教授の新論文の米側学術誌への掲載が決まった段階から同教授への脅迫に近い攻撃が始まったことを、教授自身が具体的に伝えている。その種の攻撃は、吉田清治報告や朝日新聞の慰安婦強制連行報道の虚構を無視するかのような暴論である。
さらに注目すべきは本書の報告するラムザイヤー論文の1本が、米国下院の日本糾弾決議の16年前に発表された事実である。この論文だけでも、日本軍の慰安婦が「性奴隷」でも「強制連行」でもなかったことが証される。日本側がこの種の資料を使い、早い段階で反論していれば、日本全体への汚辱も避けられたかもしれない。本書の示す教訓の一つだろう。
ジョン・マーク・ラムザイヤー(John Mark Ramseyer、1954年 - )は、アメリカ合衆国の法学者。ハーバード・ロー・スクール教授。専門は日本法及び法と経済学。シカゴ生まれの宮崎県育ち。
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気に入った新聞コラム
安倍氏の遺志どこへ?矜持なき議員達とメディア
弁護士・北村晴男
2024/1/21 08:00 オピニオン コラム 刺さるコラム
今の日本が壊れていく要因は、矜持なきメディアと、自己保身に汲々とする政治家議員だろう。
またそれを黙ってみている国民にも、大きな責任があると思います。
2024/01/21
北村 晴男(きたむら はるお、1956年〈昭和31年〉3月10日 - )は、日本の弁護士、タレント。長野県更埴市(現:千曲市)出身。プロゴルファーの北村晃一は長男、女優の北村まりこは次女。所属する法律事務所は、北村・加藤・佐野法律事務所。日本保守党法律顧問。
安倍氏の遺志どこへ?矜持なき議員達とメディア
弁護士・北村晴男
自民党安倍派の議員たちは、安倍晋三元首相がどういう日本をつくろうとしていたか、その遺志を忘れてしまったかのようだ。
彼らは安倍氏の死後、たがが外れてしまった。昨年、安倍氏が慎重姿勢を取り続けていたLGBT理解増進法成立に手を貸したのは記憶に新しい。同法は伝統的に性的少数者に寛容であった日本社会を「差別する側」「される側」に分断するなど弊害が大きいが、彼らは安倍氏がいなくなるや、あっさりと法案成立に動いた。
派閥パーティー券収入のキックバックをめぐる問題でも、産経新聞の阿比留瑠比記者によれば生前の安倍氏は令和3年11月に同派会長に就任し「キックバックと政治資金収支報告書不記載の悪習をやめさせた」とされる。つまり安倍氏の死後、その遺志が無視され、キックバックと不記載が行われたのだ。閣僚などが辞任したり逮捕されたりしてメディアが「安倍派」「安倍派」と騒ぐたび、彼らにそもそも安倍派を名乗る資格があるのかと思う。
一方で、日本の安全保障環境は日々、厳しさを増すばかりだ。尖閣周辺に毎日のように武装船を送り込む中国海警局は、日本漁船に立ち入り検査する計画も策定中だ。中国の核の脅威も高まる上方で、近年はSNSで日本への核兵器使用を訴える動画が多くのアクセスを集めるなど、中国の危険性は増すばかりだ。
安倍氏は、最後に出演したBSフジのプライムニュースで中露や北朝鮮の脅威に対し、「核の傘は揺るがないことを米国は明確にしているが、これをより現実的にしていく必要がある」旨を述べ、日本をめぐる核抑止を真剣に論じていた。この危機意識を今の安倍派の議員は持っているのか。
一昨年の安倍氏銃撃後、メディアは安倍氏があたかも旧統一教会と深い関係があったかのような印象操作に終始する。母親が教団に多額の寄付をしようが、若者は自分の人生を自らの努力で切り拓く。親の大金を当てにするのは怠け者で、安倍氏を殺して同情を引くのは残虐で計算高く、卑怯の極みである。しかし、道理を知らないメディアはその肩を持つ。まともな矜持を持つメディアなら、殺人者やテロリストに報酬を与える報道はしないが、彼らは何が何でも安倍氏を批判しようと、非道な殺人者に報酬を与え続ける。日米同盟を強化し、安保法制を成立させ、中国や北朝鮮への危機意識を明確にしてきた安倍氏の功績と思想を葬りたいに違いない。
今の日本を見て一番喜んでいるのは中国や北朝鮮。それでもマスコミは「安倍派」と騒ぎ、当の安倍派議長たちは安倍氏の意思を忘れ、自己保身に汲々として信念なき漂流を続ける。(きたむら・はるお)
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私が気に入った新聞コラムから学んだこと
被災者目線でない避難所生活
拓殖大学特任教授・防災教育研究センター長・濱口和久
2024/1/17 08:00 オピニオン 正論 能登半島地震
はじめて、濱口和久氏の見解を聞きました。
イタリアの防災管理システムはスゴイですね。災害がたびたびある日本が、なぜできないのか不思議な気がします。政治家が本気で考えていない証拠ですね。
2024/01/17
濱口 和久(はまぐち かずひさ、1968年10月14日[1] - )は大学教授。拓殖大学大学院地方政治行政研究科特任教授および同大学地方政治行政研究所附属防災教育研究センター長、一般財団法人防災教育推進協会常務理事・事務局長、防災危機管理フォーラム代表、防災・危機管理政策アドバイザー、城郭史研究家、一般社団法人防災住宅研究所理事、特定非営利活動法人日本領土領海戦略会議政策顧問、一般社団法人サイバースマートシティ創造協議会顧問、元自衛官。
被災者目線でない避難所生活
拓殖大学特任教授・防災教育研究センター長・濱口和久
自分事として捉える
元日早々から日本人は地震と向き合うことになった。石川県で最大震度7を記録した能登半島地震は発災から約2週間経(た)っても、道路の寸断が続きいまだに孤立している集落がある。停電、断水、通信障害なども解消されていない。石川県が16日に発表した死者数は222人(災害関連死14人も含む)にのぼり、現在も行方不明者の捜索が続けられている。
今回、被災した地域以外の大多数の日本人にとっては、自分の暮らす地域で発生した地震でないために、マスコミなどの映像や写真などを通じてでしか被災地を見ることができない。そのため、どうしても自分事ではなく人ごとになりがちだ。日本は地震大国であり、今後高い確率で発生する恐れがある首都直下地震や南海トラフ巨大地震が起きる地域に限らず、日本列島のどの地域に暮らしていても、日本人は常に地震リスクと隣り合わせであるということを理解しておくべきだろう。
平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、昭和から平成に時代が変わり最初の甚大な被害を伴う地震となった。その後も平成の時代は東日本大震災や熊本地震、北海道胆振東部地震などを日本人は経験してきた。能登半島地震は平成から令和に時代が変わり最初の甚大な被害を伴う地震となったことは誰の目にも明らかだ。
改善されない避難所の環境
能登半島地震では多くの住宅が全半壊し、発災後も余震が続くなか、被災者は自宅での生活ができないため避難所に身を寄せている。だが、避難所に指定されている施設も発災から数日間は停電、暖房がない状態で過ごさなければならず厳しい生活を強いられていた。断水によるトイレ問題も深刻となった。
体育館や教室に布団などを敷いて寝る生活は、ほこりやウイルスを吸い込みやすく、床から30センチ以上の高さがある簡易ベッドが不可欠とされるが備蓄の数は限られていた。プライバシーの確保のため雑魚寝を避けようと自動車での車中泊が増えれば、エコノミークラス症候群の危険性も高まってくる。避難所の環境は阪神・淡路大震災のときからほとんど改善されていない。
日本の避難所の環境の悪さは「先進国の中で最低のレベル」とも言われている。紛争や災害の際の避難所の環境水準を定めた国際基準に「スフィア基準」というものがある。多数の難民や被災者が発生した場合の人権、生命を守るための最低限の基準として国際赤十字などが設定したものだ。日本の避難所は一部の施設を除けば、この基準から程遠い状態だ。
1月13日、石川県七尾市の港に防衛省がチャーターしている民間の最大300人が宿泊可能な大型フェリーが入港し避難者を受け入れているが、日本は災害対応や台湾有事の住民輸送に備えて大型病院船を導入するべきだろう。
日本は災害のたびに防災体制の見直しや国土強靱(きょうじん)化の取り組みを行ってきたが、現状の避難所の環境は被災者目線とは程遠いものとなっていることが改めて浮き彫りとなった。
イタリアを参考に
能登半島の地理的特性や道路事情からイタリアの仕組みをそのまま能登半島地震に当てはめることはできないが、今後の日本の防災対策の参考になると思うので紹介したい。
イタリアでは発災後、政府からその日のうちに「緊急事態宣言」が発出されると、州(自治体)が備蓄してある「テント・簡易ベッド・トイレ」を1ユニットとして、大型トレーラー数台で運ぶ体制が整えられている。テント村(避難所)には遅くとも2日目には簡易ベッドと冷暖房機が設置され、家族単位のテントが展開される。トイレは衛生環境が保たれ、シャワーも完備されている。
被災した州には、周辺の州からキッチンカーが急行し、テント村には食堂用に巨大テントが設置され、翌日からテーブルで温かいパスタなどの食事をとることができる。数日後には肉料理やワインが提供されることもある。自衛隊が行う炊き出しまでの数日間、菓子パンやお握りといった食事が中心の日本の避難所とは対照的だ。
イタリアの災害ボランティアは日本のボランティアとは違い、事前に災害対応の研修や訓練を受け、ボランティア団体に災害派遣希望登録を済ませており、被災地に派遣される場合は、日当・交通費・労災保険が提供される。このようなボランティアがイタリア全土に120万人以上いる。ヘリコプターや建設重機などを保有しているボランティア団体もある。
日本では災害が起きるたびに警察や消防も被災地に出動するが、自衛隊の力に大きく依存する傾向が強い。自衛隊は自己完結能力を持った災害時にも心強い集団であることだけは間違いないが、自衛隊の本来の任務は国防だ。日本人は災害を人ごととせず、平時からうわべだけの防災対策ではなく、地域特性を考慮した地域防災力の強化に取り組むべきである。(はまぐち かずひさ)
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私が気に入った新聞コラム イスラム思想研究者 飯山陽氏
民間人を盾にするハマス
イスラム思想研究者・飯山陽
2024/1/15 09:00 国際 中東・アフリカ 刺さるコラムイスラエル・ガザ情勢
この人の見解は非常に的を得ていると思います。日本のメディアと評論家はどこかおかしいですね。
意図的に真実を歪めているような気がします。
2024/01/15
飯山 陽(いいやま あかり、1976年(昭和51年)2月7日[3] - )は、日本のイスラム思想研究者、アラビア語通訳。麗澤大学国際問題研究センター客員教授。専門はイスラム法学・イスラム教に関わる世界情勢の調査・分析など。
民間人を盾にするハマス
イスラム思想研究者・飯山陽
一般に軍は民間人を守り、敵と戦う。
しかし、この一般論が全く当てはまらない軍がこの世には存在する。それがハマスだ。ハマスは2007年以来、パレスチナ自治区ガザを実効支配している過激なイスラム組織である。
ハマスはガザ住民を全く守らない。昨年10月、ハマスはガザの地下に500キロものトンネルを造ったのになぜ住民用シェルターを造らないのかと質問された幹部の一人は、トンネルは住民ではなくハマスの戦闘員を守るためのものであり、ガザ住民の75%は難民なので彼らを守るのは国連の責任だと述べた。
ハマスは単に民間人を守らないだけではなく、人間の盾として利用する。彼らは幼稚園にロケツトランチ
ャーを設置し、学校を武器庫にし、モスクの中で射撃訓練をし、病院に拠点をおいた。ある戦闘員は老婆の乗った車椅子の下に隠れてイスラエル兵を撃った。リーダー各は常に身近に子供を侍らせていることで知られている。
民間人が死ねば死ぬほど高揚するとしか思えない発言もある。ハマス指導者のハニヤ氏は10月、「我々は女性、子供、高齢者の血を必要としている。その血が我々の中の革命精神を呼び覚ます」と演説した。自称「被抑圧者のために戦う解放の戦士」ハマスにとって民間人の命は革命の「燃料」にすぎないようだ。しかもハニヤ氏をはじめとする幹部トツプ3は軒並み、ガザではなく安全なカタールに住み、総資産額は約2兆円と報じられている。彼らはガザ市民の貧困や戦禍には目もくれない。
イスラエルがハマスとの全面戦争を余儀なくされてから3か月が経つ。ハマスは10月7日、無差別テロ攻撃で1200人以上の命を残虐に奪い、200人以上を拉致した。その後のハマスとの戦いは困難を極めている。国際法など構わず、民間人を盾にするテロ組織に対し、イスラエルは主権国家として国際法に従い、民間人の巻き込みを最小限に抑えるべく作戦を実行せざるを得ない。イスラエル軍報道官は12月、「ハマスにとって民間人の死は戦略、我々にとっては悲劇だ。だからこそ我々は、ハマスが始めたこの戦争において民間人の被害と苦痛を最小限に抑えるべく手段を講じている」と述べた。
ところが少なからぬ日本のメディアは、イスラエルがガザの民間人を意図的に大量虐殺しているかのよう
な報道に終始し、ハマスの非道からは目をそらす。停戦を訴える一方で、ハマスに対し、民間人の背後に隠れるのをやめ、武器を置き、拉致した人質を返せと要求する声はほとんど聞こえない。ハマスにとって、イスラエルを非難する偽善者はありがたい「仲間」だ。
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私が気に入った新聞コラム 数学者藤原正彦氏
この国民にして、この政治あり
…派閥裏金の病理 藤原正彦
2024/1/4 07:00菅原 慎太郎 政治 ライフ 学術・アート The考
相変わらず、この人の思想、考え方には、敬服します。
西洋思想とアメリカに完全にやられたということですね。
日本人が失ったものを、もう一度取り戻すには、どうしたらいいのだろうか?
やはり、教育が一番重要だと思うのだけれど。
2024/01/07
藤原 正彦(ふじわら まさひこ、昭和18年(1943年)7月9日 - )は、日本の数学者。お茶の水女子大学名誉教授。専門は数論で、特に不定方程式論。エッセイストとしても知られる。妻は、お茶の水女子大学で発達心理学を専攻し、カウンセラー、心理学講師そして翻訳家として活動する藤原美子。新田次郎、藤原てい夫妻の次男として、満洲国の首都新京に生まれる。ソ連軍の満洲国侵攻に伴い汽車で新京を脱出したが、朝鮮半島北部で汽車が停車したため、日本への帰還の北朝鮮から福岡市までの残り区間は母と子3人(兄、本人、妹)による1年以上のソ連軍からの苦難の逃避行となった。母・藤原ていのベストセラー『流れる星は生きている』の中でも活写されたこの経験は、本人のエッセイの中でも様々な形で繰り返し言及されており、老いた母を伴っての満洲再訪記が『祖国とは国語』(2003年)に収録されている。
派閥裏金の病理
近頃、政治家のスキャンダルがかしましい。野党や週刊誌の喜ぶ失言や女性問題もその一つだが、こればかりは困ったことに、どうしようもない。昔からあり、今後も永遠にあり続けるだろう。ただ、これらは国民や国家に大きな影響を及ぼすことではない。今騒がれている政治資金パーティーでの政治資金規正法に触れる裏金隠しはそうはいかない。「政治とカネ」は自民党の宿痾である。1988年のリクルート事件、その後の東京佐川急便事件、ヤミ献金問題、と明るみに出るたびに自民党は様々な対応策を打ち出してきた。例えばリクルート事件の時には、派閥が金権政治の温床との批判に応え、「政治改革大綱」を発表し、党三役や全閣僚の派閥離脱を掲げ、派閥パーティーの自粛をうたったが、きれいさっぱり忘れられた。今回も対応策が出されるだろうが、また忘れられるだろう。
福沢諭吉は「学問のすすめ」の中で、「この人民ありてこの政治あるなり」と喝破した。政治は国民の鏡ということである。すなわち、「政治とカネ」は国民が正直と誠実をないがしろにするようになったことの鏡像にすぎないのだ。ということは、不正直や不誠実は、自民党ばかりでなく野党も含めた国会議員、さらに県会議員、市会議員にも広がっているはずである。不正直や不誠実はビッグモーターやダイハツだけでなく、程度の差こそあれ、ほとんどすべての企業で、いや、ほとんどの組織で行われ、看過され、隠蔽されているのではないか。
なぜ日本人は不正直になった
日本人の道徳について古くは三世紀の「魏志倭人伝」に、「盗みや訴訟をせず礼儀正しい」と記されている。十六世紀に布教に来たザビエルは、「礼節や名誉を尊ぶ」と書いたし、十八世紀に長崎出島に来たスウェーデン人医師ツェンベリーは、「率直にして公正、正直にして誠実、勇敢にして不屈」と記した。幕末に日米修好通商条約を結び六年近く日本に滞在した米外交官タウンゼント・ハリスはこう記した。「この国には
一見したところ富者も貧者もいない。人民の本当の幸福の姿とはこういうものだろう。私は時々、日本を開国させ外国の影響にさらすことが、果たして彼等をより幸福にするかどうか、疑ってしまう‐。日本は世界中のどの国とも違い、質素と正直の黄金時代にあるからである」。日本は世界のどの国とも異質の、高貴な国だったのである。
ハリスの懸念した通り、日本は間もなく帝国主義の波に巻き込まれ、いくつもの戦争を経て、ついに国土は焼け野原と化し、貧者ばかりの国となった。それでも道徳の方はさほど大きく傷つけられずにすんだ。ところが、戦後のGHQによる罪意識扶植計画にはやられた。彼等は、日本の歴史や古くからの美徳や伝統や価値観を巧妙かつ大がかりに否定した。日本が二度と、立ち上がってアメサカに歯向かうことのないよう、祖国愛を根こそぎにしようとしたのである。代わりにアメリカが盲信する自由、平等、民主主義を植えつけた。歴史上初めての敗戦で虚脱の中にいた日本人は、これらとGHQが一週間余りで作った新憲法こそが、平和と繁栄への道と押し戴いた。
冷戦後の1990年代半ばから入ってきたグローバリズム(新自由主義)は日本人の道徳にさらなる追い打ちをかけた。金融ビッグバン、新会計基準、市場原理、規制緩和、小さな政府、官叩き、地方分権、民営化、大店法、構造改革、リストラ、ペイオフ、郵政改革、緊縮財政、消費増税、株主中心主義、と矢継ぎ早に登場した。すべてアメリカが日本に強要したものであった。大災害とかバブル崩壊などの惨事につけこみ、新自由主義を拡大するショック・ドクトリンであった。
新自由主義とは規制をなくし「皆が公平に戦おう」というものである。一見合理的な話だから政治家、官僚、経済界、アメリカ帰りのエコノミスト達、そして独自の見解を持たず彼等に盲従するばかりのメデイアが強力にこれを支持した。国民も「これからはグローバリズムの時代、バスに乗り遅れるな」の標語につられて、これに飛びついた。その結果、成果主義が生まれ、弱肉強食の競争社会となり、一億総中流社会と言われた社会が少数の勝者と大勢の敗者に分断され、歴史的に世界で最も金銭崇拝から遠かった我が国が、金銭至上主義となった。正直や誠実は隅に追いやられ、人々のやさしさ、穏やかさ、思いやり、卑怯を憎む心、他者への深い共感など、日本を日本たらしめてきた誇るべき情緒、そして行動規範となる形は忘れられた。
GHQ、反日、グローバリズム
明治の文明開化以来、西洋からの新しい思潮にすぐに飛びつくという悪弊が生まれた。帝国主義、マルキシズム、ファシズム、そして戦後は、原爆投下という大罪を犯したアメリカの自己正当化にすぎないGHQ史観に他愛なく染まり、反日史観にとりつかれ、グローバリズムに流されている。
こうなることを予想していたのか、福沢諭吉は前掲書でこんな趣旨のことを言った。「数百年にわたり一国で行われてきた習慣は、簡単に改めてはいけない。改めるには千思万慮、歳月を積まねばならない」。制度や習慣や道徳などには、祖先の叡智が巨大な山のごとく堆積しているという理由からである。
明治になり武士が不要となったのは仕方がないが、慈愛、誠実、惻隠(弱者への涙)、勇気、卑怯を憎む、などを主とする武士道精神までが衰微したのは大きかった。日本人は形を失った‐のである。哲学者の唐木順三は、「現代史への試み」でこんな趣旨のことを述べた。基盤となる形を持たない個性は新しい思潮に常に圧倒される。明治以降、日本人が外国からの思潮に深い査察なしに飛びつき、日本人らしさを失っていった背景にこれがあったのだ。
家庭と学校で、古くからあった日本人の情緒と形を育むことが、日本の迷走を食い止める唯一の根本策である。小学校で英語やパソコンにうつつを抜かしているヒマはない。
私は高校一年の頃、宮沢賢治の「永訣の朝」を読んで心を揺さぶられた。「けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」で始まる詩である。
死の床にある二十四歳の妹とし子が高熱であえぎながら、庭の松の枝から雪をとって来て食べさせてほしいと言う。賢治が、二人が慣れ親しんだ茶碗医入れてその雪を食べさせると、妹は「生まれ変わったら自分のためでなく他人のためにも苦しむ人間に生まれてきたい」と言って息を引き取った。賢治は、「わたくしのけなげないもうとよ わたくしもまつすぐにすすんでいくから」と誓うのだった。
この詩を読んで感動した私は、自分もこれからはまっすぐに生きていこう、何が何でもまっすぐに、と自らに強く言い聞かせた。一篇の詩との出会いが私の指針となった。子供たちにこんな経験をさせたいのである。