聖徳太子伝1部

 

■ 聖徳太子伝1部

産経新聞に掲載された「聖徳太子没後1400年 特集 第1部~第6部」が非常に勉強になったので、書き起こして掲載します。

 

聖徳太子没後1400年 特集 第1部~第6部 

聖徳太子伝 第1部

 

①不在説の波紋 比類なき生涯も実像は謎多く

2021/4/6 08:00無料会員記事  2021/4/6~2022/1/29

 

聖徳太子二王子像」模本、明治30年、和田貫水筆(奈良国立博物館蔵、同館提供、森村欣司撮影) 
聖徳太子二王子像」模本、明治30年、和田貫水筆(奈良国立博物館蔵、同館提供、森村欣司撮影) 

 

 

すぐれた徳(聖徳)の皇子と呼ばれ、長く日本人に愛されてきた飛鳥時代の皇族がいる。聖徳太子。誰もが知る飛鳥時代の偉人で、一万円札の顔としても親しまれた。今年は1400年遠忌に当たり、ゆかりの寺院では法要が営まれる。太子といえば十七条憲法や遣隋使の派遣で知られる政治家・外交官で、仏教の保護者として最澄や親鸞ら後世の名僧が敬愛した思想家でもあった。「和をつなぐ」では脈々と受け継がれてきた太子信仰を紹介し、コロナ禍の今こそ見直したい「和の精神」を考える。第1部では、その人物像をめぐる謎を追った。

 

〈用明天皇の皇后、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は4人の皇子を産み、その第1子を厩戸(うまやと)皇子と申し上げる。この皇子ははじめ上宮(うえのみや)に住み、のちに斑鳩(いかるが)に移られた。推古天皇の御代に東宮(とうぐう・皇太子)につき、国政をすべて執り行って天皇の代行をなさった〉

 

日本書紀が伝える厩戸皇子こと聖徳太子だ。

 

厩の前で生まれ、生後まもなく言葉を話し、成人すると一度に10人の訴えを聞いても聞き分けることができた。さらに、冠位十二階や十七条憲法を定め…とその事績は華々しい。

 

伝説も含め、広く世に知られるところだが、近年、学問の世界ではその実在性が揺らいでいる。教科書表記の聖徳太子を厩戸王に変更しようという動きもあった。

 

「もしそんな人物がいたら想像を絶する偉大な人だったでしょうが、実在したのは一人の王族としての厩戸王であって、聖徳太子は実在しない」というのは、中部大学名誉教授の大山誠一さんだ。平成8年に論文を、11年に著書「〈聖徳太子〉の誕生」(吉川弘文館)を刊行して議論の火付け役となった。

 

聖徳太子は架空の人物で、没後約100年の後に書かれた日本書紀(720年)において創造された-と大山さんは考える。

 

「そのころ日本は律令国家として歩み始めたばかりで、役人は礼儀に欠け規律も定まらなかった。仏教や儒教、道教に通じ、中国の皇帝に比するような天皇像を示して、天皇制が国家秩序の頂点にあることを示す必要があった。そんな象徴となるような聖人を作り出さねばならなかったのです」(大山さん)

 

主導したのは当時の権力者だった藤原不比等(ふひと)ら。その上で安定政権を確立し、天皇家と婚姻関係で結びつきながら、権力、そして日本の歴史も支配していったという。

 

果たして太子の実像とは-。

 

 

聖徳太子の異なる没年

聖徳太子の事績を伝える史料は「日本書紀」のほか、太子ゆかりの法隆寺にも貴重な品々がある。金堂「釈迦三尊像」の光背銘(仏像の背後に付ける装飾に刻まれた銘文。623年の造像や太子の没年月日が記されている)などはよく知られたところだ。

 

推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)があったとされる奈良県明日香村から遠く同県斑鳩町を望む。聖徳太子は斑鳩宮から黒い愛馬で通ったとの伝承がある=奈良県明日香村(本社ヘリから、彦野公太朗撮影) 
推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)があったとされる奈良県明日香村から遠く同県斑鳩町を望む。聖徳太子は斑鳩宮から黒い愛馬で通ったとの伝承がある=奈良県明日香村(本社ヘリから、彦野公太朗撮影) 

 

 

かたや日本最古の正史、一方は太子創建とされる寺だが、謎がここにもあった。太子の没年を書紀は621年、法隆寺系の史料では622年と異なるのである。

 

太子は日本書紀で創造された架空の人物とする大山誠一・中部大名誉教授は、信憑(しんぴょう)性が高いとされ太子実在の根拠に挙げられるその銘文にこう反論する。

 

「すでに指摘されていますが、銘文冒頭にある『法興(ほうこう)』という年号は存在しません。そもそも年号という知識が当時の日本人にあったでしょうか? 初の元号は大化(645年)とされてきましたが、近年では連続性を前提とするなら大宝(701年)以降とされています。100年ほどの開きがあります。銘文は実在の根拠にはならない」

 

法隆寺系史料は日本書紀とは別系統とし「その背景にあったのは、天平年間、疫病の流行や兄弟を失い仏教の加護を求めた光明皇后(藤原不比等の娘)の願いだったのです。父が創造した太子を神格化し太子信仰を作り上げたのです」。

 

 

「最有力の王位継承候補だったのは確か」

一方、蘇我氏との関係や当時の東アジア情勢から太子像をとらえるのは「蘇我氏-古代豪族の興亡」(中公新書)などの著書がある国際日本文化研究センターの倉本一宏教授だ。

 

聖徳太子関連の略系図 
聖徳太子関連の略系図 

 

 

伝説と史実は分けて考えなければならないとした上で、推古女帝の時代には蘇我馬子が主導的な立場にあったものの、太子も有力かつ優秀な男性王族として政治・外交に関わり、「天皇、馬子、太子の3者による共治が行われていたと考えるべきだ」という。推古や馬子の娘が太子の妃となっていることからも「最有力の次期王位継承候補だったのは確かだろう」。

 

「特に外交面では女帝ではなく男性の王族が必要な場合が多かった」とみて、女帝に代わって太子が表に立った可能性を指摘。「当時のグローバルスタンダードを理解するセンスを持ち、伝来して間もない仏教をいち早く理解した点でも優秀な人物だったのではないか」と推測する。

 

日本書紀の虚構性は認めた上で「仏教に対する理解と信仰を持ち合わせていた厩戸皇子、すなわち聖徳太子の存在まで否定的にとらえる必要はない」というのは、立命館大学の本郷真紹(まさつぐ)教授だ。

 

太子の両親の母はいずれも仏教を保護した蘇我氏の女性で、幼少時から仏教に慣れ親しんだ可能性を指摘。法隆寺の光背銘などからも「確かに太子が実在していたのは間違いないと思われ、全く架空の人物を創り上げたとするのは無理がある」という。

 

 

疾病との闘い、再生する「和の精神」

聖徳太子は実在したか、しなかったか。論争は続くが、当時の社会情勢を探ると見えてくるものがあった。734年に畿内で大地震が起き、翌年には疫病が発生して多くの人が亡くなっている。人智を超えた自然や病の脅威を前に、人々が心のよりどころとしたのが仏教であり、聖徳太子だったのではないか。

 

現代も相次ぐ災害に、新型コロナウイルスとの闘いも続いている。社会に軋轢(あつれき)が生じる今こそ、人がともに生き抜く心のありようを和の精神に学びたい。

 

 

聖徳太子

574~622年。31代用明天皇の皇子で名は厩戸(うまやと)。日本書紀によると国内外の学問に通じ、おばにあたる33代推古天皇の即位とともに皇太子に。摂政として冠位十二階や十七条憲法を制定、中央集権国家づくりに尽力する一方、遣隋使を派遣するなど外交でも活躍した。仏教に帰依してあつく保護、四天王寺(大阪市天王寺区)や法隆寺(奈良県斑鳩町)などを建立して興隆に尽力した。推古天皇在位中に薨去(こうきょ)。墓所は大阪府太子町の叡福寺北古墳とされ、宮内庁により「磯長墓(しながのはか)」として治定されている。

 

②神々より外来の仏教に重き 十七条憲法ににじむ真意

2021/4/7 08:00無料会員記事

 

「聖徳太子二王子像」模本、明治30年、和田貫水筆(奈良国立博物館蔵、同館提供、森村欣司撮影) 
「聖徳太子二王子像」模本、明治30年、和田貫水筆(奈良国立博物館蔵、同館提供、森村欣司撮影) 

 

 

〈和を以(もっ)て貴しとなし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ〉

 

聖徳太子といえば、教科書でも習う十七条憲法のこの第一条を思い浮かべる人が多いだろう。「憲法」といっても、現代とは異なり、役人らの心得などが書かれ「礼を大事にせよ」「早く出仕し遅く退出せよ」といった具合だ。

 

後世には、板木に彫られるなどして流布。現在でも会社など組織の理念に生かされることもあり、太子創建とされる法隆寺(奈良県斑鳩町)の古谷正覚(ふるやしょうかく)住職は「『和』が基本。その心でもってお互いを認め、敬い合うことが大切」と語る。

 

 

「聖徳太子の十七条憲法」疑う学説も

日本書紀によると、十七条憲法は推古12(604)年、太子が自ら作り発表した。十七条まですべて書紀に記されているが、実は古くから、太子が作ったことを疑う学説がある。

 

大正・昭和の歴史学者、津田左右吉(そうきち)は、十二条に「国司・国造(くにのみやつこ)は人民から搾取してはならない」とあるが、国司・国造は645年に始まる大化改新以前には存在せず、その文章にも後の日本書紀(720年)などとの類似性を指摘した。その後も、後世の偽作とする説が打ち出され論争されてきた。

 

法隆寺が所蔵する重要文化財の「十七条憲法板木」(表面、鎌倉時代、奈良国立博物館提供、森村欣司撮影)。 初めに「十七條憲法上宮太子作」とし、第一条から刻まれている(上) 
法隆寺が所蔵する重要文化財の「十七条憲法板木」(表面、鎌倉時代、奈良国立博物館提供、森村欣司撮影)。 初めに「十七條憲法上宮太子作」とし、第一条から刻まれている(上) 

 

 

一方、「後世に手が入っているかもしれないが、基本は太子の原作だろう」と考えるのは東野治之(とうのはるゆき)・奈良大名誉教授だ。その理由を「『詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必ず謹(つつし)め』(第三条)の前に『篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬え』(第二条)があり、こうした条文の順序は律令制が整ってくる後の時代では考えにくい。天皇中心の律令国家では(天皇が発する)詔を一番に考えるはず」と説明する。

 

「三宝」とは仏法僧のことで、仏とその教え、それを説く僧の集団を指す。第一条の「和」に続き、二条で「三宝」を強調するのは、「仏法興隆を重んじた飛鳥時代特有の順序」と東野氏は話す。

 

 

独自の神を崇めることに「対立の芽」

皇位を継ぐ可能性のある人物が、在来の神々よりも外来の仏教を重んじる憲法を作れるのか-。本郷真紹(まさつぐ)・立命館大教授はそんな観点で、十七条憲法を太子が作ったとみることに以前は疑問を抱いていた。

 

だが次第に、「神祇(じんぎ)は信仰として重んじる一方、理論のある仏教を政治的に活用しようとした」と、柔軟にとらえるようになったという。ではなぜ、そこまで仏教を求めたのか。

 

法隆寺が所蔵する重要文化財の「十七条憲法板木」(表面、鎌倉時代、奈良国立博物館提供、森村欣司撮影)を拡大したもの。初めに「十七條憲法上宮太子作」とし、第一条から刻まれている 
法隆寺が所蔵する重要文化財の「十七条憲法板木」(表面、鎌倉時代、奈良国立博物館提供、森村欣司撮影)を拡大したもの。初めに「十七條憲法上宮太子作」とし、第一条から刻まれている 

 

 

「和が重んじられる前提として社会の混乱があった」と本郷氏。当時は、物部(もののべ)、蘇我(そが)氏の対立など豪族同士が争い、崇峻(すしゅん)天皇の暗殺も起きるなど、何より「和」が求められた時代だった。第一条には〈人はみ

 

な党を組むが、賢者は少ない〉とあり、「党」は地縁、血縁的集団を指し「各集団が軸となる独自の神を崇(あが)めることにより対立が生じた」という。

 

そんな神祇の弱点を克服する必要があったと考え、本郷氏はこう語る。

 

「太子がそんな状態を和して、世界に対応できる新しい国家体制を築くために仏教の普遍性に期待し、それを重んじる十七条憲法をまとめたのだろう」

 

 

日本書紀とは

国の正式な歴史が編まれた初の「正史」として知られる。40代天武天皇の皇子、舎人(とねり)親王らの撰で、奈良時代の養老4(720)年に完成したとされる。現存最古の歴史書という古事記が神代から33代推古天皇までを記し神話の時代に多くを割いているのに対し、神代を経て初代神武天皇から41代持統天皇までのことを年代順で記載。聖徳太子(厩戸(うまやと)皇子)についてはその誕生譚(たん)をはじめ、「一度に10人の訴えを聞き分けた」といった伝承や斑鳩宮の造営、冠位十二階、十七条憲法の制定などを記す。

 

③太子の天皇即位を阻んだ「女帝の時代」

2021/4/9 08:00無料会員記事

 

〈姿色(ししょく)端麗にして、進止軌制(しんしきせい)あり〉 
〈姿色(ししょく)端麗にして、進止軌制(しんしきせい)あり〉 

 

 

聖徳太子が支えた日本初の女帝、33代推古天皇について日本書紀はそう記す。後の女性天皇の皇極(こうぎょく)や持統(じとう)は容姿への言及がなく、美貌との記述は真実味がある。「進止軌制」は振る舞いがきちんとしているとの意味で、きりりとした人柄も浮かぶ。32代崇峻(すしゅん)天皇が、反目した蘇我馬子に殺害される異常事態を受け、誕生した女帝である。

 

〈厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子とされた。一切の政務を執らせて、国政をすべて委ねられた〉

 

太子はおばの推古によって立てられたと日本書紀は記す。ただし即位はせず皇太子のまま没した。十七条憲法など数々の業績を残した太子ほどの人物がなぜ即位できなかったのか-。繰り返し持ち出される疑問である。それにこたえるには律令制国家が盤石となる以前の、大和政権の皇位継承のありさまを解き明かさなくてはならない。

 

 

申し分ない血統も決め手にならず

「この時代、天皇になるためには血統より経験や実績が重視された。さもないと群臣の承認は得られず、30~40歳が普通でした。太子はまだ19歳と若く、抜きんでる実績があったわけではありません」

 

学習院大の遠山美都男(みつお)講師はそう話す。

 

聖徳太子関連の略系図 
聖徳太子関連の略系図 

 

 

太子の父は31代用明天皇で、母は皇后の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。父母は大権力者の蘇我馬子のおい、めいにあたり、血統は申し分ない。ところが数々の実績はまだ未来の話であり、聡明(そうめい)な若者というにすぎない。対して30代敏達(びだつ)天皇の后であった推古は39歳。皇后として一定の政治経験も蘇我氏というバックもある。前例がない女性であるということを除けば、天皇の位につく絶妙のポジションにあった。

 

「その名の額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)が示すように自らの部民(べみん)を所有し、皇后になってからは財力もあった。律令制以後に強くなる女性排除の意識は当時、まだ薄かったのです」

 

初の女帝誕生の背景を、遠山氏はこう解説した。太子を含めて条件にあう男性皇族がおらず、推古が即位した。太子は数え49歳で没するが、推古は75歳と長命であった。生前譲位の考えがない当時、太子に王位が回ってくることはなかった。

 

 

女帝推古との信頼ゆえに

いま、推古天皇陵と太子の墓は奈良盆地から山を隔てた大阪府南東部の太子町にあり、互いの距離は1キロほどしか離れていない。飛鳥と難波(なにわ)を結ぶ竹内(たけのうち)街道が近くを通り蘇我氏一族の勢力地であったとされる。

 

大阪府太子町の「推古天皇陵」(坂本英彰撮影) 
大阪府太子町の「推古天皇陵」(坂本英彰撮影) 

 

 

推古陵は一辺約60メートルの方墳で、田畑に囲まれた墳丘に木々を茂らせてよく目立つ。一方、太子の墓は守護寺院として建立された叡福寺の伽藍(がらん)の最奥部にある。叡福寺の寺伝によると、推古朝の時代に「永く追福を営むために一堂を構えた」のが始まりだという。太子と推古の信頼で結ばれた関係をしのばせる。

 

「十七条憲法を作るような才能を推古天皇は若い太子に見抜いたのでしょう。聡明なだけではなく、何かを持っている若者だと感じていたのだと思います」

 

近藤本龍住職はそう話した。

 

 

女性天皇は8人10代

33代推古から、これまでに8人10代の女性天皇がいた。6世紀末に即位した推古に続き、7~8世紀の35代皇極、37代斉明(さいめい)、41代持統、43代元明(げんめい)、44代元正(げんしょう)、46代孝謙、48代称徳が女性天皇だった。皇極と斉明、孝謙と称徳はそれぞれ同一人物で、男性天皇を挟み2度在位した。元明、元正は母娘で女帝が2代続いた。飛鳥時代から奈良時代にかけての一時期は突出して女性天皇が多く、「女帝の時代」ともいわれる。長い断絶を経て江戸時代に再び女性天皇が現れる。109代明正(めいしょう)と、最後の女帝となった117代後桜町である。

 

④国書事件の真相 国救った側近・小野妹子の「嘘」

2021/4/10 08:00無料会員記事

 

聖徳太子ゆかりの法隆寺。左は金堂、右奥は五重塔=奈良県斑鳩町(飯田英男撮影) 
聖徳太子ゆかりの法隆寺。左は金堂、右奥は五重塔=奈良県斑鳩町(飯田英男撮影) 

 

 

日本と中国の関係は今も昔も難しい。飛鳥時代にも、日中間に緊張が走る事件が起きそうになったことがあったという。未然に防いだとされるのが、聖徳太子が当時の中国・隋に派遣した遣隋使、小野妹子(おののいもこ)だった-。

 

〈日出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや〉

 

妹子は、こう書いた国書を持参した。

 

隋の皇帝、煬帝(ようだい)は「野蛮な書で無礼だ」(蛮夷(ばんい)ノ書、無礼)と怒ったと伝わるが、この一連の記述は日本書紀にはない。『隋書』倭国伝だけが伝えるもので、太子が実際に対等外交をめざしたか否かは古代史の謎の一つだ。

 

 

聖徳太子への妹子の敬愛と忠義

妹子が、太子の信頼する側近だったことは間違いない。その証左が、華道・池坊の家元が代々住職を務める紫雲山頂法寺・六角堂(京都市中京区)である。

 

聖徳太子創建と伝わる六角堂=京都市中京区(渡辺恭晃撮影) 
聖徳太子創建と伝わる六角堂=京都市中京区(渡辺恭晃撮影) 

 

 

「伝承では、四天王寺を創建するための木材を探しに、太子は妹子を伴ってこの地に来て、見つけた泉で身を清めた。その際、常に身につけていた観音様を近くの木に掛けたが、離れなくなって、この地で人々を救いたいと告げたのでお堂を建てた。それが六角堂の始まりです」

 

池坊中央研究所の細川武稔主任研究員はそう話す。大事な護持仏を置いていく太子は、妹子に住職を命じた。妹子は「専務」と名乗ってこの地に残り、以来、池坊の家元は「専」の入った名を名乗る。現代の専永氏は妹子の45世に当たる。

 

「京都はまだ、木材探しの場所になるほどの未開の土地。そこに残って寺を守るのですから、妹子の太子への深い敬意が想像できます」

 

 

「暴君」煬帝の返書の行方

太子もまた、妹子を尊重していたことを示す事件が日本書紀に載っている。妹子が隋から返礼の使者を連れ帰った際、煬帝の返書を朝鮮半島で盗まれたと告白した。群臣たちは怒って妹子を流刑に処したが、推古天皇が赦免した。書紀は天皇の決定と書いているが、太子が政治の実務を行っていたことから、赦免は太子の判断とみられる。

 

「遣隋使は、経典や政治制度だけでなく、音楽などの文化まで学んで持ち帰るのが役割ですから、相当な文化人でなければ務まらない。それができると見込まれた妹子なので、軽々に処罰するわけにはいかなかったと思います」

 

そう語るのは大阪市浪速区の願泉寺住職、小野真龍(しんりゅう)氏である。小野氏は、遣隋使、遣唐使が持ち帰った雅楽を今に伝える天王寺楽所雅亮(がくそがりょう)会の副理事長。そして妹子の八男・多嘉麿(たかまろ)義持の44世に当たる。

 

「わが家にも妹子が持参した国書の内容は伝わっていません」と前置きした後で、小野氏はこう語る。

 

「煬帝は暴君だったと伝わる皇帝ですから、日没する処の天子などと呼ぶ国書を持っていくことは決死の仕事。妹子が承知するとは思えない。だから日本の自立を主張するだけの、もっと穏やかな文面だったと思います。それでも煬帝の返書は苛烈な内容だったので紛失したことにした。太子もそれに気づいて、罪に問わなかったのではないでしょうか」

 

史上有名な「国書事件」は、太子の高い志と深い知恵をうかがわせるものでもあるようだ。

 

 

六角堂と小野妹子

「六角さん」として親しまれる六角堂は587年創建。開祖は聖徳太子で、ご本尊は太子の護持仏と伝わる如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)。

 

 

境内の東北隅には太子を祭った太子堂があり、この場所は太子が沐浴(もくよく)した池の跡と伝わる。この池のほとりに小野妹子を始祖とする住持の寺坊があったことから「池坊」と呼ばれ、わが国の生け花発祥の地となった。妹子の僧侶としての名は「専務」。華道・池坊では道祖としている。六角堂は西国巡礼三十三所中の十八番札所としても信仰を集めている。

 

⑤富士へ飛翔、平安を予言… 太子は神か、謎めく伝承

2021/4/11 08:00無料会員記事

 

愛馬「甲斐の黒駒」に乗って富士山頂に飛翔する聖徳太子=「聖徳太子絵伝」(東京国立博物館所蔵、江戸時代)から。ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)をもとに産経新聞社作成 
愛馬「甲斐の黒駒」に乗って富士山頂に飛翔する聖徳太子=「聖徳太子絵伝」(東京国立博物館所蔵、江戸時代)から。ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)をもとに産経新聞社作成 

 

 

聖徳太子はさまざまな能力を持っていたとされ、日本書紀(720年)は、その超人ぶりをこう記す。

 

<生まれてすぐに言葉を話し、優れた知恵がおありだった。(中略)一度に10人の訴えを聞いても間違いなく聞き分けることができ、さらに先々のことまで見通された>

 

こうした記述が、太子没後のおよそ100年後に編纂(へんさん)された日本書紀にみられるということは、太子を聖人化し信仰の対象とする見方がこのころすでにあったことをうかがわせる。

 

その後、数々の太子伝が著された。集大成とされるのが「聖徳太子伝暦(でんりゃく)」(917年)。これをもとに、太子信仰を広めるため、その生涯を描いた絵物語「聖徳太子絵伝(えでん)」が全国の寺院にもたらされた。

 

 

富士山へ飛び、神仏と対話

絵伝は、最古の作例とされる四天王寺壁絵や、旧法隆寺の障子絵「聖徳太子絵伝」(国宝、1069年、東京国立博物館蔵)などが知られる。以降、太子700年忌の鎌倉時代末から広がった。

 

絵伝を象徴する図が「黒駒(くろこま)で富士山頂に飛翔(ひしょう)する太子」だ。黒駒とは黒毛の馬。伝暦では、27歳の太子が甲斐(山梨)から贈られた黒駒で富士山をへて各地を回り、3日後に帰還したという。後の伝記では、太子が富士山で神仏と問答した様子を記し、伝暦の記述を補完している。

 

聖徳太子ゆかりの法隆寺・五重塔 
聖徳太子ゆかりの法隆寺・五重塔 

 

 

「噴火を繰り返した当時の富士山を知る人々からみると、太子の驚嘆すべき能力として理解されたのでしょう」と山梨県富士吉田市教委の篠原武学芸員はいう。

 

同市には古墳時代以降の溶岩跡が多く、富士山は、奈良・平安時代も数十年間隔で噴火を繰り返した。この後の活動休止時期に、神仏が住む霊峰として人々が遥拝(ようはい)するだけだった富士山に、仏教を信仰する修験者が立ち入るようになる。

 

篠原さんは「登山が難しかった当時の富士山で、太子が神仏と問答するには空を飛ぶ設定が必要だったのでは」とみる。

 

 

親鸞も「和国の教主」と敬う

鎌倉時代初めには、太子が富士山頂に至った足跡を、浄土真宗の開祖、親鸞が訪ねている。その際、富士吉田市の如来寺住職が親鸞に帰依し、浄土真宗に改宗したと伝わる。

 

その如来寺には江戸時代に信仰者の集まりから奉納された、黒駒に乗り従者を伴った「聖徳太子騎馬像」が伝わる。像は夏の登山時期に、太子と黒駒が降り立ったと伝わる8合目駒ケ岳にあったという太子堂に安置された。明治の神仏分離令による中断をへて、現在も8月に銅像を駒ケ岳に運び法要を営む。

 

如来寺の渡辺英道住職は「信仰者から太子像が寄進されたことをみると、当時多くの人が富士山と太子の話を知っていたとみられます。また太子像の管理をめぐり、寺と駒ケ岳の小屋の管理者などと細かい取り決めがなされていることから、太子信仰の深さがみてとれます」と解説。親鸞も太子と富士山の伝承をたどったことについて、「太子を和国の教主と仰いだ親鸞聖人にとっても、太子の偉大さを象徴する話だったのでしょう」と話した。

 

 

聖徳太子信仰と伝承

聖徳太子は伝記「聖徳太子伝暦」が記した多彩な能力から、建築、戦、芸能、医学など多彩な分野で崇拝の対象となった。予言者としても45代聖武天皇の治世や平城京、平安京の遷都を見通したと伝暦は記す。また、太子と動物との逸話も知られる。江戸時代から現代までキャラクターとして愛される太子の愛犬「雪丸」は人の言葉を理解し、お経を唱えたとされる。富士山に太子を運んだ愛馬「甲斐の黒駒」は太子の死去を悲しみ、自ら葬儀に参列し、太子の後を追ったと伝わる。

 

この連載は岩口利一、北村理、坂本英彰、安本寿久、山上直子が担当しました。

 

 

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