近現代史記事紹介-4

 

■ エリザベス女王死去 共和制移行論議や一部批判も

 

 

産経新聞世界の論点に「エリザベス女王死去 共和制移行論議が活発化」が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

2022年9月19日、エリザベス女王の国葬が執り行われました。

英連邦のこれからは、非常に重要な段階にきているということですね。

2002/09/20

 

 

エリザベス女王死去 共和制移行論議や一部批判も

2022/9/19 10:00 平田 雄介氏  森浩氏  コラム 英国王室世界の論点

 

 ■近現代史研究 評論家 江崎道郎氏のコメント(FBより)

英女王エリザベス2世の葬儀

場所は、ウェストミンスター寺院で、各国の元首も参列。もちろん、イスラム教徒の皆さんも。

葬儀には女王自らのリクエストが反映され、この日のために作曲された聖歌なども歌われた。

リズ・トラス英首相が聖書の一節を読み上げた。

イギリス国教会の最高指導者、カンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビー氏が説教を行った。

ウェリントン・アーチへの葬列にも、女王の家族、つまり王族の男性は軍服姿で付き添った。

宗教と軍事を前面にだした葬儀について、批判する声はほとんど聞かない。これが世界の標準。

 

エリザベス女王、2022年9月9日の画像
エリザベス女王、2022年9月9日の画像
2022年9月19日 ウェストミンスター寺院での国葬
2022年9月19日 ウェストミンスター寺院での国葬

 

 

英国歴代君主として最長の在位70年7カ月に及んだエリザベス女王が8日、96歳で死去した。女王の死には世界各国から悼む声があがり、英国とは「特別な関係」にある米国のメディアでも、女王に好意的な追悼記事が大半を占めた。ただ、歴史的な経緯から一部では痛烈な批判記事もみられた。また、英連邦諸国では女王死去による求心力の喪失が指摘され、オーストラリアなどでは早くも、共和制への移行論議が再び頭をもたげている。

 

■英連邦

共和制移行論議が活発化

 

≪ポイント≫

・結束維持する求心力を失った英連邦諸国

・チャールズ3世は「最後の豪州君主」か

 

旧植民地などで構成する英連邦諸国のうち、英国王を共通の国家元首とする14カ国〈英国以外)でも、エリザベス女王の死を悼む声が相次いだ。各国では英国との対等な関係を求めて共和制移行に向けた動きが絶えずくすぶっているが、女王は結束を維持する求心力となっていた。しかし、女王が世を去ったことで各国メディアは、立憲君主制の是非をめぐる議論が活発化することを予想している。

 

英国王を国家元首としているのはカナダ、オーストラリア、ニュージーランド(NZ)、ジャマイカ、バハマなどで、各国には国王の代理人として総督が置かれている。

 

特に豪州は英国王を君主に頂く現体制からの脱却を求める声が強い。1999年には共和制移行の是非を問う国民投票が行われ、反対55%で現行の立憲君主制維持が決まった経緯がある。アルバニージー首相は今年6月、女王在位70年を受けた演説で、豪州国民は「女王に愛情を抱いている」と敬意を示しつつ、英豪関係にいて「われわれは対等で、重要なのは友人であることだ」と語り、英国王を君主とする一員という立場を見直す可能性に触れた。

 

地元紙シドニー・モーニング・ヘラルド(電子版)は9日の社説で哀悼の意を示しつつ、女王の死によって「豪州で再び共和制をめぐる議論が活発化するだろう」と指摘した。社説では「経済的、政治的に混迷を極める英国において、国王という安定した存在は重要である」と触れた上で、新たに即位したチヤールズ3世について「新国王がわが国(豪州)の硬貨を飾る最後の君主となることも予想される」と述べた。

 

NZでもこれまで〃脱英国〃に向けた動きが広がっており、英国旗(ユニオンジヤック)を配した国旗のデザィンに反対する声も強い。アーダン首相は12日(共和制について「急ぐ必要性は感じない」と前置きしながら、「(現在42歳である)私が生きている間にそうなる可能性が高いと思っている」と述べた。

 

地元紙ニュージーランド・ヘラルド(電子版)は13日の解説記事で、総督は儀礼的な存在で内政への影響力はほとんどないことを指摘しつつ、「親しみやすく、信頼され、愛された」女王の死が共和制移行をめぐる議論を呼び起こすのは必然だと述べた。

 

記事は専門家の言葉を計用しながら、「19世紀にこの島々(NZ)の主権を宣言した旧植民地主義勢力と、象徴的につながり続けたいかどうかを考える必要がある」とも指摘。歴史的な経緯も踏まえ、共和制に向けた議論が高まっていくことを予測した。(シンガポール 森浩)

 

 

■米国

大半が礼賛の中で批判も

 

≪ポイント≫

・女王は米英の特別な関係を象徴する存在

・残酷な大英帝国のイメージと重なる女王

 

「エリザベス女王死去」のニュースは全米で速報され(特集番組も組まれた。「無私の心で(英国と英連邦の人々に)生涯をささげた」などと好意的報道が大半を占めたが、英国が横暴な振る舞いをしたアフリカなどの旧植民地にルーツを持つ人も多い米国だけに「大英帝国の象徴だ」と批判する論評も目立った。

 

多くの米国人にとって、エリザベス女王は「米英の特別な関係を象徴する存在」(アリゾナ州立大のピータ一・バーゲン教授)だった。米英は共通の言語と法体系を持ち、ともに連合国側で参戦した第二次大戦以降は特に、軍事、経済、文化的な結びつきを強めてきた。バーゲン氏は米CNNテレビ9日電子版で1952年に25歳で即位した女王が「故トルーマン氏からバイデン氏まで歴代14人の米大統領と交流した」と指摘。中でも「アウトドアや乗馬という趣味が共通していた故レーガン氏を最も魅力的な人と感じ、親交を深めた」との王室伝記作家の証言を紹介した。

 

ニューヨーク在住の英国人ジャーナリストナリス、ティナ・ブラウン氏は、英国で女王が敬愛される理由を9日の米紙ニューヨーク一タイムズ電子版で解説した。96歳を過ぎてなお、600以上の慈善団体の総裁を務めた女王について「王冠の重さを理解していた」と述べ、その人柄を「粗雑になり、取引が優先される世界で、最後の品行方正な人だった」とたたえた。逝去までの9カ月間、体調不良と闘いながら、冷静に義務を果たし続けたことに「英国民は畏敬の念を抱いた」と指摘し、「英国民は、女王を『エリザベス大王』として記憶するだろう」と述べた。

 

他方、ハーバード大のマヤ・ジャサノフ教授(大英帝国史)はニューヨーク・タイムズ電子版で8日、女王在位中の50年代に英領ケニアなどで英国が起こした残虐行為に言及し「その治世を理想化すべきではない」と強調した。具体的には、民族解放を求めて蜂起した数万人を「(女王の代理人である)ケニア総督は収容所に拘置し、残忍かつ組織的な拷間を加えた」と解説、「女王が、残酷で暴力的な大英帝国のイメージだったのは事実だ」と論じた。

 

米紙ワシントン・ポストで人権問題などに取り組むアフリカ系米国人のコラムニスト、カシン・アティア氏は10日電子版で、「君臨すれども統治せず」との原則から在任中の「悪事にほとんど責任を負わない」女王へのいらだちを示した。「女王は、旧植民地から収奪した宝飾品を身につけ、有色人種を後見する

『自い母』という役割を進んで引き受けた」と非難した。(ニューヨーク 平田雄介)

 

2022年9月19日 ウェストミンスター寺院での国葬 
2022年9月19日 ウェストミンスター寺院での国葬 

 

 

 

■ 歪められた昭和史

 

日本がなかったらアジアは白人支配が続いていた。日本の戦争は、欧米列国の「東亜侵略百年」を覆す戦い。戦前は人種差別がまかりとおった時代だった。「戦争の遠因はアメリカにおける移民の迫害であり、近因は石油の禁輸である」。

いやーいい本でした。

2022/09/16

 

歪められた昭和史 渡部昇一著  2021年10月第一刷発行

 

日本の英語学者、評論家  渡部 昇一氏 
日本の英語学者、評論家 渡部 昇一氏 

 

渡部 昇一(わたなべ しょういち、1930年〈昭和5年〉10月15日 - 2017年〈平成29年〉4月17日)は、日本の英語学者、評論家。上智大学名誉教授。専攻は英語文法史。学位はミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)哲学博士。ミュンスター大学名誉哲学博士。公益財団法人日本財団評議員。

 

 

歪められた昭和史 渡部昇一著 要約

 

■はじめに

●日本がなかったらアジアは白人支配が続いていた。

 

●日本の戦争は、欧米列国の「東亜侵略百年」を覆す戦い。

石油がなければ二十世紀の国家は存続できない。

マッカーサー:「日本が戦争を始めたのは主として自衛のためであった」上院での証言。

 

●忘れられた日本の言い分

戦前・戦中の日本のすべてを否定する占領軍政策、言論統制、有能な人材を追放する公職追放令が行われ、日本人はいつのまにか、戦争に至る日本の言い分を忘れてしまった。

 

●人種差別の時代

戦前は人種差別がまかりとおった時代だった。

昭和天皇:「戦争の遠因はアメリカにおける移民の迫害であり、近因は石油の禁輸である」

移民に対するアメリカ人の人種差別。日露戦争以後の移民。

1924年に絶対的排日移民法を定めて徹底的に差別し、迫害した。

有色人種に対する白人優位は、産業革命以後、」18世紀の半ば頃。白人の高度な近代文明。

白人の横暴と支配:シナではアヘン戦争、インドでもセポイの乱、シナもインドもイスラムも。

日本によって人類の歴史は一変する。・・短期間に完璧に西洋の自然科学と近代産業を自らのもにした。

日本人さえいなければ二十世紀、あるいは二十一世紀まで有色人種は白人の召使かどれにすぎなかった。

日本は武士がいて、武士道があることを西洋人は知らなかった。

 

●近代産業と武士道

明治期の日清・日露戦争の司令官はみな武士の出身。「武士の戦争」。

自然科学・工業・発明に携わった人・・武士階級の出身

二十世紀初頭に起こった日露戦争(1904~05年)は、1492年のコロンブスのアメリカ到着以来、五百年の歴史を覆す一大転機となった。

世界中の被征服民族に、白人は数百年間におよぶ利権が脅かされることになったと受け取った。

アメリカも日本に対して脅威と反感を持つようになり、移民の迫害が始まって、以後、複雑なプロセスを経て大東亜戦争に至る。

 

●後世に残る大東亜共同宣言

開戦時にはタイ国を除いてアジアはすべて植民地だった。

戦時中の1943年東京で大東亜会議が開催、有色人種による「アジア・サミット」だった。

日本、満州、南京の中華民国、タイ、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府はオブザーバー参加。

全会一致で「大東亜共同宣言」を採択。・・植民地支配の否定と人種差別撤廃を提唱した。

二十世紀初頭・・世界中で人種差別があって当然、美徳。

二十一世紀初頭・・世界から実質上植民地は消え失せ、人種差別は悪となった。

 

●「大君の額づき給う」

靖国神社の趣旨は、戦死した武士をお祀りすることです。天皇陛下も頭を下げてお参りする神社。

天皇が額ずくのは伊勢神宮、明治神宮。八幡神宮(応神天皇の直系)と靖国は別格。

 

■第1章・「満州国は日本が中国を侵略してつくった」のではない

国際連盟脱退は満州問題。

満州国は満州という土地に、満州族一番の直系の王族が戻ってきて建てた国。万里の頂上の北。シナではない。シナ人の侵略思想。清朝政府(満州民族の帝国)の復活。日本が内面指導した。

 

■第2章・「信念から始まる朝日新聞」への疑念

上がおかしくなると下までおかしくなる。会社がらみでチェック機能が働いていない。日本悪しかれ史観。左翼史観・・占領から7年間のうちに、公職追放、マスコミ、大学に左翼史観を持った人物が入った。

 

■第3章・韓国大統領はゆすり、たかり、恩知らず

李斯朝鮮は(李朝)建国以来シナの冊封を受けて臣下になった。朝鮮はシナの一部だった。

皇帝と王の違い。傷つきやすいエゴを持っている国。

ロシア・・シナと朝鮮に早く近代化してもらいたい。ロシアを抑える。

朝鮮に近代化してもらい清国から独立してもらいたいというのが明治政府の方針・日清戦争の対立点。

戦争に勝ち、韓国は清国から独立。下関講和条約で清国から遼東半島を割譲。ロシア、ドイツ、フランスの3国干渉dr遼東半島領有を放棄。

日露戦争に勝ち、韓国は外交権のない保護国にした。「併合」は「植民地」ではない。

韓国に投資。インフラ整備。ハングル文字普及。韓国を日本並みにしようとした。

日帝36年の寄付のし通し。日韓併合派日本にとって不幸なこと。

2005年日韓基本条約締結。日本が韓国に残した資産が賠償要求額を上回っていた。

賠償や謝罪要求は、河野洋平と宮沢喜一が原因。

 

■第4章・恩を仇で返す韓国にはウンザリ

韓国は日本と戦っていない。庇護の立場。

日本を悪者にしておきたいのは、アメリカ、中国、韓国と、それに呼応する日本国内の反日勢力、自虐史観勢力。北岡伸一の歴史観は、東京裁判史観。

マッカーサーこそ歴史修正。米国上院軍事外交合同委員会で証言。1951年5月3日。

彼らが戦争に突入した目的は、主として安全保障のため、余儀なくされたもの。石油鉄の輸出封鎖。

フーバー回顧録2011年。「日本との戦争のすべてが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望だった。1941年7月の金融制裁は、挑発的であったばかりではなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になったとしても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込んだ。

原爆も10万人の東京空襲も反米運動にはつながらない。

 

■第5章・中国・韓国は歴史的痴呆症だ

歴史教育は「美しい虹」を見せること。

中国・韓国はいまや一番非友好国。政治家のチャイナスクール。

 

■第6章・やくざも呆れる中国の厚顔無恥

日本は、講和条約は蒋介石(国民党政府)と結んでいる。

中共政府とも友好条約を結んだ。・・内政干渉しない。靖国問題は朝日問題。

 

■第7章・朝日よ、講和条約をよく読め!

中国・・平和友好条約で解決済。

無差別爆撃や原爆で市民虐殺をやった国・アメリカの責任。

中立条約を無視して侵攻してきた国・ソ連。・・それこそ戦犯である。

現在の中国政府はサンフランシスコ講和条約に招請されていない。まったく関係ない。

日本と戦った蒋介石政府は、サンフランシスコ条約11条にもとづく戦犯の釈放に同意している。

 

■第8章・東京裁判は日本を蝕む「梅毒」だ

東京裁判で唯一「日本は無罪である」と述べたインドのパール判事は、「東京裁判は、原爆よりも日本の精神を長き世にわたって毒す」という趣旨のことを言っている。

国際法にない戦争犯罪を裁くことなどできない。

絞首刑7名。終身禁固刑16名、有期禁固刑2名。

第11条後半で、「諸判決」を停止させる条件が付いている。これに、もとづいて所判決を廃止した。

国会は全会一致で戦犯を救済した。1953年改正遺族援護法成立。

 

梅毒根治案

1.「独立回復記念日」制定1945年8月14日~1952年4月28日の7年間占領された。

大使館を持てない、国家掲揚・国家斉唱ができない、輸出入は占領軍の許可、言論統制、法律制定施行できない、憲法も1946年11月3日、施行は1947年5月3日。

憲法前文は、日本にいまだに主権がない。生存まで他国に預ける・・明確な主権否定。

2.東京裁判の実態を教える。日本は自衛のために戦争をした。

3.マッカーサー証言を広く知らしめる。

GHQで公職追放、憲法改正、財閥解体、農地改革等の占領政策実施。

日本は自衛のために戦争をした。・・上院軍事外交合同委員会の証言。

 

■第9章・人を喰う中国人に喰われるな

隷属を強いられる「友好」。

平和・・隷属の平和・属国の平和・滅亡の平和

平等な対話をしないことが、日中間の友好。

シナ人悪基本的な性格。・・食人肉風習の存在。

 

■第10章・脈々と続く朝日新聞反日の源流

朝日新聞、左翼ジャーナリズム、進歩的文化人、日教組、といった「反日を煽る人々」。

共産党とそのシンパや同調者。

GHQの初期の占領政策。・・ルーズメルト大統領の民主党政権の政権内部は共産党とそのシンパ。

戦前の共産党の思想と初期占領政策。この二つが「反日を煽る人々」とその思想を育てた。

戦前の共産党は、コミンテルン日本支部。

1925年治安維持法が制定・・共産党活動が取り締まり対象になった。朝日に継承された反日思想。

日本の復讐を恐れたアメリカ。・・原爆投下、東京大空襲の大虐殺実行。戦後の占領政策。

アメリカの戦前の日本を悪く見せなくてはならない思惑が、戦後日本の左翼思想と合致した。

1946年n公職追放令(戦犯・軍人・戦争協力者・地方議員・市町村長・マスコミ関係者・企業幹部・約20万人の職場追放)。

政界では、閣僚5人、国会議員300人・・追放者の少なかった革新政党が躍進。大学、ジャーナリズムの世界・・左翼が進出。

 

■第11章・国を滅ぼす煽情ジャーナリズムの深源

5.15事件・・右翼・・正体は左翼・皇室を尊敬する共産主義者だった。

 

■第12章・慰安婦歴史論争は朝日の全面敗北で終わった

吉田証言は嘘であった。女子挺身隊は慰安婦ではなかった。

中韓的な「日本を徹底的に貶めたい」と考える強力な中心勢力がある。

産経新聞の大金星・・公の談話に韓国の意向が働いた。

卑怯な論点ずらし・政治的意思による誤報・捏造は会社ぐるみ

 

■第13章・皇統「百二十五代」は日本の誇り

皇室は日本の総本家。成り上がり国家ではない日本。

日本はとても古い歴史を持つ国。日本の王家は、神話の時代から2600年以上も連綿とつづいている。

万葉集・山上憶良の日本観・・「皇神の厳しき国」すめろぎのいつくしきくに。

日本の神社はすべて皇室に関係がある。

シナ文明と異なる日本文明。アーサー・ウイリー、サミュエル・ハンチントン。

日本という国は、神話の時代からつづいている王朝を持っている唯一の近代国家。

日本の皇室に芭「男系の女帝」しかいない。皇統125第の重み。

 

■第14章・あまり拙速な女性天皇容認論

「女系天皇の容認」は2665年にわたる長い日本の歴史に一度たりともなかったこと。

女性天皇は全て未婚。女帝が10代8人。男性天王の皇女。宮家の復興。進駐軍の命令で臣籍降下。

 

■第15条・天皇「生前退位」の衝撃!摂政を置いて万世一系を

摂政を置くことを提案。皇室典範は変えるべきでない。・・皇室の憲法。

万世一系は揺らいではいけない。

2600年以上の歴史がある。2000年以上続いているのはローマ法王庁と皇室だけ。

伝統の文書は、出雲大社や伊勢神宮に残っている。

 

■おわりに

占領軍の偽善的な政策・・GHQの(連合軍総司令部)

1945年9月18日・・プレスコード

1945年9月22日・・ラジオコード

1946年10月8日・・大新聞の事前検閲・・雑誌、書籍、放送、映画、演劇にも及ぶ

プレスコードの禁止事項は30ばかり

アメリカや東京裁判や占領政策についての批判禁止

シナ人や朝鮮人についての批判禁止

国家としての中国は新しい・・建国60年も経っていない。

中国・・蒋介石統一した国・・清国は満州民族の国家・・シナ大陸・シナ史。

東京裁判を受諾し国際社会に復帰。サンフランシスコ講和条約の誤解。反日左翼。

講和条約第11条は東京裁判の諸判決の実行を日本に求めているもの。・・誤解がある。

反日左翼の主張・・外務省、政府に浸透し出したのは、日中国交樹立の頃からではないか。

 

 

 

■ 王室存続は大変な偉業 エリザベス女王死去

 

 

産経新聞に、2022/9/8に逝去された英国エリザベス女王への、君塚直隆氏のコメント「王室存続は大変な偉業」が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

第二次大戦後の、英連邦15カ国の君主在位70年、確かに偉業ですね。これからも、英連邦の君主が存続できるのか、今後の課題かもしれません。

2022/09/11

 

王室存続は大変な偉業

君塚直隆氏「大衆民主政治の時代に適応」 英国政治外交史

2022/9/9 09:29  国際

 

英国政治外交史に詳しい 君塚直隆氏 
英国政治外交史に詳しい 君塚直隆氏 

 

君塚直隆(きみづか・なおたか)は 昭和42年、東京都生まれ。立教大文学部卒業後、英オックスフォード大留学を経て、上智大大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大客員助教授、神奈川県立外語短大教授などを経て現職。著書は『立憲君主制の現在』(サントリー学芸賞)、『エリザベス女王』など多数。

 

 

王室存続は大変な偉業

 

英国史の中でエリザベス女王の特筆すべき点は、大衆民主政治の時代に適応した君主のあり方を、70年の治世を通じて示したことにある。20世紀に適応した君主像を確立したのは女王の祖父ジョージ5世だった。現代では国民の支持がなければ君主制は成り立たない。女王はそれを良く理解し、さらに発展させた。

 

女王が即位した1952年の英国と、70年後の今ではまるで別の国だ。特に80年代のサッチャー政権による改革以降は厳しい競争社会となり、王室や貴族など生まれながらの上流階級に対する国民の無条件の敬意は急激に衰退した。

 

王の権利が制限された現代で、君主は国民に対し何ができるのか。英王室の回答は慈善事業だった。女王も96歳をすぎてもなお、600以上の慈善団体の総裁を務めた。今世紀以後はそれらの公務がインターネットを通じて国民に周知され、王室支持を強めた。 

 

さらに、2020年4月にコロナ禍でジョンソン首相やチャールズ皇太子が感染しているなかでも、BBCのテレビを通じて国民に団結を訴え、国民統合の象徴としての役割を見事に果たした。

 

また、旧英連邦諸国の首長としても大きな役割を果たした。南アフリカのネルソン・マンデラ氏の釈放やアパルトヘイト廃止などは、当時の英首相が関心を示さない中、女王が旧英連邦諸国に働きかけることで事態を動かした。大英帝国が溶解する時代にあって、女王は国内では王室の、国外では英国のステータスを良く保つことができた。

 

英国史の中で、長期にわたって在位した君主は何人もいる。だが社会が大きく変化した20世紀に長い治世を全うして王室を存続させたことは、高祖母のビクトリア女王、祖父のジョージ5世と比べても、もっと大変な偉業だった。

 

ウィンザー城で開かれた誕生日祝賀行事に出席したエリザベス女王=2021年6月、英イングランド(AP) 
ウィンザー城で開かれた誕生日祝賀行事に出席したエリザベス女王=2021年6月、英イングランド(AP) 

 

 

エリザベス女王と英国の歩み

 

1926年4月21日・・誕生

1939年9月13日・・第二次大戦始まる

            英国首相:1940~45ウイストン・チャーチル

1945年5月8日・・ドイツが無条件降伏

1947年11月20日・・元ギリシャ王族のフィリップ殿下と結婚

            英国首相:1951~55ウイストン・チャーチル

1952年2月6日・・父ジョージ+6世死去に伴い即位 

1953年6月2日・・戴冠式

            英国首相:1970~74エドワード・ヒース

1973年1月1日・・・・・・・・・・EU(欧州共同体)加盟

1979年5月4日・・・・・英国首相:1979~90マーガレット・サッチャー

1982年4月2日~6月14日・・・・・フォークランド紛争 

                                  英国首相:マーガレット・サッチャー

1997年7月1日・・・・・香港返還・・英国首相:1997~2007トニー・ブレア

1998年4月10日・・・・北アイルランド紛争で包括和平合意 

            英国首相:トニー・ブレア

2002年2月6日・・即位50周年

2003年3月20日・・・・イラク戦争に参戦 英国首相:トニー・ブレア

            英国首相:2010~16デービット・キャメロン

2011年10月28日・・・・英連邦16カ国が王位継承法を男女平等、長子優先に改正することで合意

2012年7月27日~8月12日・・・・・・ロンドン五輪

2014年9月18日・・・・・スコットランド独立を問う住民投票で独立否決 

2015年9月9日・・ビクトリア女王を抜き、歴代君主で最長在位に

            英国首相:2016~19テリーザ・メイ

2016年6月23日・・・・・国民投票で欧州連合(EU)離脱決定 

2020年1月31日・・・・・EUから離脱 英国首相:2019~22ボリス・ジョンソン

2021年2月1日・・・・・ 環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に加入申請

2021年4月9日・・フィリップ殿下死去

2022年2月6日・・即位70周年

             英国首相:2022年9月6日 エリザベス・トラス就任

2022年9月8日・・96歳で死去

 

 

 

 

■ 日本は「米国の有事」に備えよう

 

 

産経新聞正論コラムに、ジェイソン・モーガン氏の気になるコラム、「日本は「米国有事」に備えよう」が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

台湾有事、日本有事の場合、今のアメリカは武器援助はするけど直接介入はしませんね。オフショア・バランシング戦略なのでウクライナと同じ。日本人はやはり平和ボケですね。

2022/09/09

 

日本は「米国の有事」に備えよう 麗澤大学准教授 ジェイソン・モーガン

2022/9/8 08:00 コラム 正論

 

麗澤大学のジェイソン・モーガン准教授 
麗澤大学のジェイソン・モーガン准教授 

 

ジェイソン・モーガンは1977年、アメリカ合衆国ルイジアナ州生まれ。テネシー大学チャタヌーガ校で歴史学を専攻後、名古屋外国語大学、名古屋大学大学院、中国昆明市の雲南大学に留学。その後、ハワイ大学の大学院で、東アジア学、特に中国史を専門に研究。2014~2015年、フルブライト研究者として早稲田大学法務研究科で研究。2016年、ウィスコンシン大学で博士号を取得。一般社団法人日本戦略研究フォーラム研究員を経て、2020年4月より麗澤大学国際学部准教授。専門は日本史、法社会学史。

 

 

日本は「米国の有事」に備えよう 麗澤大学准教授 ジェイソン・モーガン

 

 

8月6、7日、安全保障問題のシンクタンク「日本戦略研究フォーラム」主催の政策シミュレーション「徹底検証:台湾海峡危機 日本はいかに備えるべきか」が行われた。いわゆる「台湾有事」に関する机上演習で、同フォーラムの上席研究員として、また英語で情報発信するオピニオンサイト「ジャパンフォワード」の取材でオブザーバー参加した。

 

 

「有事」の危機感高まったが

 

土日2日間、二つの重要なポイントが浮き彫りになったと感じた。一つ目は、現職国会議員や元官僚らも参加した机上演習では、これまでとレベルの違う「日本政府」の危機感があった。

 

サイバー攻撃などを含め、「危機」を想定したシナリオが、岩田清文元陸上幕僚長が担当した「統裁部」から参加者に投げ掛けられた。首相役を務めた小野寺五典氏、外相役の松川るい氏、防衛相役の大塚拓氏らが緊迫感を持って臨んだ。今年7月に凶弾に倒れた安倍晋三元首相が指摘していた「台湾有事は、日本有事だ」とのもっともな観察は、ようやく日本社会に広く理解されてきたのは間違いない。

 

リアルな緊迫感があったのは、ペロシ米下院議長の訪台を受け、中国が軍事演習を行い、弾道ミサイルを日本の排他的経済水域(EEZ)に撃ち込むなど暴挙に出た影響もあったからだ。

 

しかし、もう一つ浮き彫りになった気がかりなことがある。「米国」の存在が非常に一元的で、リアル感に欠けていることだ。

 

机上演習では、中国の侵略などによる危機が展開する中、日本の「首相」「防衛相」らが「ワシントン」(隣室)まで駆け付けて、米大統領役の元米国務省日本部長のケビン・メア氏、米国務長官役の長島昭久氏と会談を行った。期待通り、米政府、米軍が動いてくれた。つまり米側は正常に稼働して必要に応じて出兵するほか、核の傘を日本の自衛隊に差しかけてくれていた。

 

 

米国が助ける「幻想」

 

これは米国人の私の目から有り得ない。机上演習がその瞬間でフィクション(虚構)というより、ファンタジー(幻想)にみえる。

 

ワシントン・ポストの報道によると8月4日に、米国の歴史学者数名がホワイトハウスでバイデン大統領と会合をもった。歴史学者は、米国の国内分断は1860年頃と似るようになって、南北戦争寸前の時に近い状態になっていると指摘したという。

 

この歴史学者は米国の大学などに勤める左翼だ。しかし、彼らの主張に賛成する一般的な米国民もいる。米国は、内部で2つになった。「内戦」という驚くべき言葉が頻繁にニュースやオピニオンコラムに出ている。

 

歴史学者がホワイトハウスを訪問した数日後、連邦捜査局(FBI)がトランプ前大統領のフロリダ州にある豪邸に現れ、家宅捜索を行い十数箱の資料などを持ち帰ったとの報道も驚くべきことだ。連邦政府が前大統領をターゲットにしたという前例のない、極めてアグレッシブ(攻撃的)な行動だった。メラニア夫人のクローゼットまで入り、洋服を引っかき回したとも報じられている。

 

トランプ氏が「機密」資料を持っていたと、ガーランド司法長官とレイFBI長官は言うが、共和党の支持者、とりわけトランプ氏の支持者は、連邦政府の言うことを信じない。ヒラリー・クリントン元国務長官も「機密」資料を自分の家で保管していたが、FBIの強制捜査はなかった。

 

 

日本にとっても危険な状況

 

ビル・クリントン政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官、サンディー・バーガー氏は、クリントン元大統領のテロ対策を批判する資料をズボンの中に隠し米国立公文書記録管理局から盗みハサミでコンフェティ(紙片)にした。クリントン氏をかばうためなのは一目瞭然だったが、クリントン氏はFBIの強制捜査を免れた。FBIの公平性を疑う例はほかにもある。

 

米民主党が連邦政府を「武器化」して、共和党を攻撃している印象が高まっている。米国人同士の信頼感が失われている。日本にとってもとても危険な状況だ。

 

FBIだけの問題ではない。米国ではインフレが止まらず、物価が急騰している。不法移民やそれに伴う麻薬、人身売買などが後を絶たない。大都市の殺人事件、強盗などの犯罪が絶えず、日々記録を刻んでいる。

 

対中関係では、中国海軍の船の数が米海軍を上回ったことも報じられた。米国の国内のムードは「戦う前にも、もう負けている」というネガティブな考え方が広まっている。

 

前述した台湾有事のシミュレーションの中では、「米大統領」は、レーガン時代が再来したかのように行動していた。でももう、その時代は終わった。安倍元首相のおかげで日本人はやっと、台湾有事の危険に目が覚めたけれども、米国内の状況を十分認識し、「米国有事」にも備えてもらいたい。米国がいつも日本を助けてくれるとはかぎらない。

 

 

 

■ ポスト冷戦終焉の象徴 ゴルバチョフ氏死去

 

 

ゴルバチョフ氏死去にともない、産経新聞に佐藤優氏が「ポスト冷戦終焉の象徴」と題して見解を載せていましたので、書き起こして掲載します。

 

ロシアのウクライナ侵攻のなかで、ポスト冷戦期は終わり、今後は「新帝国主義」時代に突入するということか。

2022/09/01

 

ポスト冷戦終焉の象徴 佐藤優氏 ゴルバチョフ氏死去

2022/8/31 21:11 国際 欧州・ロシア

 

作家 佐藤優氏 
作家 佐藤優氏 

 

佐藤 優(さとう まさる、1960年〈昭和35年〉1月18日 - )は、日本の作家、元外交官。同志社大学神学部客員教授、静岡文化芸術大学招聘客員教授。学位は神学修士(同志社大学・1985年)。在ロシア日本国大使館三等書記官、外務省国際情報局分析第一課主任分析官、外務省大臣官房総務課課長補佐を歴任。その経験を生かして、インテリジェンスや国際関係、世界史、宗教などについて著作活動を行なっている。東京都渋谷区生まれ。1975年、埼玉県立浦和高等学校入学。高校時代は夏に中欧・東欧(ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、ポーランド)とソ連(現在のロシア連邦とウクライナ、ウズベキスタン)を一人旅する。同志社大学神学部に進学。同大学大学院神学研究科博士前期課程を修了し、神学修士号を取得した。1985年4月にノンキャリアの専門職員として外務省に入省。5月に欧亜局(2001年1月に欧州局とアジア大洋州局へ分割・改組)ソビエト連邦課に配属された。1987年8月末にモスクワ国立大学言語学部にロシア語を学ぶため留学した。1988年から1995年まで、ソビエト連邦の崩壊を挟んで在ソ連・在ロシア日本国大使館に勤務し、1991年の8月クーデターの際、ミハイル・ゴルバチョフ大統領の生存情報について独自の人脈を駆使し、東京の外務本省に連絡する。アメリカ合衆国よりも情報が早く、当時のアメリカ合衆国大統領であるジョージ・H・W・ブッシュに「アメイジング!」と言わしめた。佐藤のロシア人脈は政財界から文化芸術界、マフィアにまで及び、その情報収集能力はアメリカの中央情報局(CIA)からも一目置かれていた。日本帰任後の1998年には、国際情報局分析第一課主任分析官となる。外務省勤務のかたわら、モスクワ大学哲学部に新設された宗教史宗教哲学科の客員講師(弁証法神学)や東京大学教養学部非常勤講師(ユーラシア地域変動論)を務めた。

 

ゴルバチョフ元ソ連大統領 
ゴルバチョフ元ソ連大統領 

 

 

ポスト冷戦終焉の象徴 佐藤優氏 ゴルバチョフ氏死去

 

ゴルバチョフ元ソ連大統領は共産党体制にいながら体制を崩した歴史的役割を果たした人だった。彼の死は西側諸国と共通の言葉で対話できる大物がロシアからいなくなったことを意味し、大国間協調を目指すポスト冷戦体制の終焉を示す象徴的出来事といえる。

 

西側は冷戦終結に導いた欧米的な自由主義思想の持ち主と思いがちだが、実際は共産主義思想やソ連を強国にするとの考えを最後まで捨てていなかった。敵を力でねじ伏せるとの発想も持ち、他国に譲歩したとしても最後には「革命」を実現させるとの考えだった。

 

実はゴルバチョフ氏の考えはプーチン政権の政策と連続性がある。ウクライナ侵攻には批判的だったようだが、「やむを得ない軍事作戦」とするプーチン大統領とは国家観も共通し、政策や思想を支持していた。1999年開始の第2次チェチェン紛争など過去のプーチン氏の手腕も評価している。

 

ただ、ゴルバチョフ氏は現実主義者(リアリスト)でもあった。「強国ソ連」の考えを持つ一方、当時のソ連が弱くなっていたことも理解しており、共産党一党独裁を放棄するなど、国を生き残らせるため現実的判断を下していた

 

露側、西側双方の考えが分かる彼の死は世界にとって痛手だ。彼の目指したポスト冷戦期は終わり、今後は国同士がエゴをむき出しにする「新帝国主義」時代に突入する。自由や民主といった価値観一点ばりではない、彼のようなリアリスト的な考えがより重要な時代になるだろう。(聞き手 桑村朋)

 

中距離戦力(INF)全廃条約にレーガン大統領と署名 
中距離戦力(INF)全廃条約にレーガン大統領と署名 

 

 

■ゴルバチョフ元ソ連大統領の歩み

 

1931年3月2日・・スタブロポリ地方で生まれる

1980年10月・・・・ソ連共産党政治局員

1985年3月・・・・党書記長

1986年4月・・・・チェルノブイリ原発事故

1987年12月・・・中距離戦力(INF)全廃条約にレーガン大統領と署名

1989年2月・・・・アフガニスタンからソ連軍完全撤退

    11月・・・ベルリン壁崩壊

    12月・・・マルタ島でブッシュ(父)米大統領と会談。東西冷戦終結を宣言。

1990年2月・・・共産党一党独裁の放棄を宣言

    3月・・・ソ連大統領に就任

    10月・・・東西ドイツ統一。ノーベル平和賞決定。

1991年4月・・・ソ連元首として初訪日、領土問題の存在を公式に認める。

    7月・・・エリツイン氏がロシア共和国大統領に就任。

         米ソが第1次戦略兵器削減条約(START1)に署名

    8月・・・クーデター未遂で一時軟禁。

    12月・・・独立国家共同体(CIS)創設。ソ連消滅で大統領辞任

1996年6月・・・ロシア大統領選に立候補し惨敗。

2022年2月・・・ロシアのウクライナ侵攻を受け、

        主宰する財団が早期停戦と和平交渉を求める声明。

2022年8月30日・・死去

 

 

 

■ 中国は「真の大国」ではない

 

 

産経新聞の「世界を解く」に、E・ルトワック氏の、中国「真の大国」に足りぬ食料」が載っておりましたので書き起こして掲載します。

 

このところの中国の状況は、予断を許しませんね。興味深い見解でです。

2002/08/31

 

中国は「真の大国」ではない 戦争阻む食糧自給

2022/8/28 16:33黒瀬 悦成 国際

 

国際政治学者 エドワード・ルトワック氏 
国際政治学者 エドワード・ルトワック氏 

 

エドワード・ルトワック(Edward Nicolae Luttwak、1942年11月4日)は、アメリカ合衆国の国際政治学者。専門は、大戦略、軍事史、国際関係論。ルーマニアのユダヤ人の家庭に生まれ、イタリア、イギリスで育つ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学び、英国軍、フランス軍、イスラエル軍に所属した後、1975年にジョンズ・ホプキンス大学で国際関係論の博士号取得。現在、戦略国際問題研究所シニアアドバイザー。

 

 

中国は「真の大国」ではない 戦争阻む食糧自給

 

ペロシ米下院議長が今月初めに台湾を訪問した。メディアは「危機」を騒ぎ立て、ワシントンにいる、いわゆる中国専門家のほぼ全員が「ペロシ氏が訪台すれば世界の終わりが来る」と言わんばかりの反対声明を出した。だが、中国は大規模な軍事演習で対抗しただけで、台湾情勢に本質的な変化は何も起きていない。

 

一つ重要なことを理解しなくてはならない。全ての国が戦争を遂行できるわけではないという事実だ。

 

確かに全ての国は、まともに反撃できない弱い国に対して戦争を仕掛けることはできる。2年前に中国がインドに対して国境紛争を起こしたのが良い例だ。

 

だが、中国が台湾に侵攻すれば米国が出てくる。米中が核保有国である以上、中国の首脳は台湾海峡での局地紛争が核戦争にエスカレー卜するリスクを考慮することを迫られる。

 

加えて、中国には戦争に踏み切れない特殊事情がある。それは中国が食料禁輸を中心とする経済制裁に脆弱だということだ。詳しく調べてみると、農業専門家の間では常識だが、多くの国際問題専門家が知らない事実に気づいた。中国が近年、植物性タンパク質の生産に大々的に取り組んでいるというこだ。

 

例えば中国は、ウズベキスタンのフェルガナ渓谷やネパールでの大豆栽培に投資している。習近平国家主席が数年前から唱え始めた「食料安全保障」の一環だ。中国では大豆の商品価値が低く、転作が進まないため、有事の際に国際制裁で海路での輸入が止まった場合に備え、家畜や家禽のエサとして不可欠な大豆を少しでも陸路で確保しようとしているのだ。

 

それほど中国は食料制裁に非常にもろい。多くの米国の同盟諸国は中国絡みの有事に際し、中国に対する直接的な武力行使に慎重だとしても、食料禁輸なら応じることができるはずだ。

 

ペロシ氏の訪台で「台湾海峡危機」を叫んだ専門家や記者たちは、中国が「完全な大国」ではないという事実を理解していない。

 

大国の定義とは何か。大国とは戦争に関わる全ての行為を自力でまかなうことのできる国だ。食料の自給で深刻な弱点がある中国は大国とは呼べない。

 

平時における世界のパワ―バランスとは、どの国が強く、どの国が弱いかという専門家たちの意見で決まる側面が強い。多くの専門家は中国の弱点を見過ごしている。一方、自国の弱点を理解する習氏は、外国に弱点を悟られないよう、最近は食料安保に関し発言を控えるようになった。

 

中国は1990年以降の経済発展で、沿岸部の農地や耕作可能な土地を大規模工業地帯として開発してきた。スターリン時代の旧ソ連がウクライナなどの穀倉地帯を温存し、ウラル山脈などの内陸部を工業開発したのとは対照的だ。

 

2000年代に入り、こうした政策が重大な誤りだと気づいた中国当局は、農地転用を厳格に制限する法律を作ったが、それでも農地は減り続け、十分な量の大豆を生産できないままだ。

 

中国は海洋国家になることを目指して多数の艦船や地対艦ミサイルを整備し、周辺海域への強力な戦力投射が可能になった。だが、船だけ作っても中国は海洋国家になれない。海洋国家の存立には船の寄港や修理、補給などを受け入れる同盟国が必要だからだ。中国が真の海洋国家ならば、食料の輸入に事欠くことはないはずなのだ。

 

米国が太平洋で覇権を確立できているのは、同盟国の日本とオーストラリアという「巨大な不沈空母」がいるためだ。中国は東・南シナ海を押さえたとしても、太平洋ではその先の足掛かりが全くない。

 

中国が同盟国を作ることをしなかったのは、胡錦濤前政権および習政権の外交政策の失敗だ。また、中国共産党は、共産主義体制の方が戦略的な計画策定ができるため、民主主義体制よりも優れていると主張するが、食料という最も基本的な部分においてさえ、計画は完全に破綻している。

 

習氏は秋の党大会で党総書記3期目続投を目指し、終身体制を視野に置いている。しかし、中国がペロシ氏の訪台を阻上できなかったことに加え、ハイテク企業の人員整理などを受けて今年7月の若者の失業率が約20%に達し、社会的不満が高まっていることを勘案すると、習氏の終身権力構想は盤石とは言い切れない。

 

中国の脅威に米軍が万全の備えを固めるのは当然だ。一方で国際情勢分析の専門家や情報機関は、同盟国がおらず海洋国家になれず、ましてや「世界的強国」には程遠い中国を適切に評価するよう努めなくてはならない。(聞き手一黒瀬悦成)

 

 

 

■ 日本人の誇り

 

こんなに中身の濃い本を今まで知りません。すごい本でした。さすが数学者。

2022/08/20

 

日本人の誇り 藤原正彦著  2011/4月第1刷発行

 

日本の数学者 藤原 正彦氏 
日本の数学者 藤原 正彦氏 

 

藤原 正彦(ふじわら まさひこ、昭和18年(1943年)7月9日 - )は、日本の数学者。お茶の水女子大学名誉教授。専門は数論で、特に不定方程式論。エッセイストとしても知られる。妻は、お茶の水女子大学で発達心理学を専攻し、カウンセラー、心理学講師そして翻訳家として活動する藤原美子。新田次郎、藤原てい夫妻の次男として、満洲国の首都新京に生まれる。ソ連軍の満洲国侵攻に伴い汽車で新京を脱出したが、朝鮮半島北部で汽車が停車したため、日本への帰還の北朝鮮から福岡市までの残り区間は母と子3人(兄、本人、妹)による1年以上のソ連軍からの苦難の逃避行となった。母・藤原ていのベストセラー『流れる星は生きている』の中でも活写されたこの経験は、本人のエッセイの中でも様々な形で繰り返し言及されており、老いた母を伴っての満洲再訪記が『祖国とは国語』(2003年)に収録されている。

 

 

日本人の誇り 藤原正彦著  要約

 

近現代史観というのは、現代の政治、経済、社会など我々の周りで起きているほとんどの現象をどう見るかに深く関わっています。すなわち、近現代史をどう見るかを露わにするということは、自らの見識を露わにすることなのです。

 

歴史を失った民が自国への誇りと自信を抱くことはありえません。この誇りと自信こそが、現代日本の直面する諸困難を解決する唯一の鍵なのです。

 

春淡き朝、試練に立つ国を思いつつ・・藤原正彦

 

 

第一章・・政治もモラルもなぜ崩壊したか

 

◇危機に立つ日本・・何もかもうまくいかなくなった日本

●アメリカの忠告に従って進めたグローバル化や構造改革は、世界でも稀に見るほど安定していた社会を荒廃させ日本が大事にしていた国是を破壊しただけで、デフレ不況は一向になおりません。

 

◇対中外交はなぜ弱腰化か

●日米安保条約は、日本の領土がどこかの国に攻撃されたら直ちに米軍が助けに馳せ参ずるとはなっていないのです。

●第五条・・日本領土でどちらかが攻撃を受けた場合、それぞれは「自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動する」とある。連邦議会が承認、米国世論が支持するとは思えない。

●集団的自衛権の問題・・いまの憲法ではアメリカ艦が攻撃されても日本艦は助けに出れない。

●日米安保条約は欺瞞の条約なのです・・両国に責任。日本は自国を自力で守らない。

 

◇アメリカの内政干渉を拒めない

●アメリカの「年次改革要望書」で内政干渉。郵貯簡保の金差出、米保険会社進出を援護の郵政民営化、日本の雇用を壊した労働者派遣法改正、医療システムを崩壊させた医療改革、外資の日本企業買収を容易にする三角合併解禁、など要求されたものでした。・・アメリカの属国。

 

◇劣化する政治家の質

●小泉チルドレン、小沢チルドレン、鳩山内閣の官僚外し。

●官僚と叩くものではなく、逆に高給を与え、エリートとしての矜持を持たせ、国家国民のために命がけで貢献してもらうものなのです。

 

◇少子化という歪み・・政治経済に追い打ち。社会福祉政策の破綻。

◇大人から子供まで低下するモラル・・深刻なのはモラルの低下。政治家や官僚だけではない。ケータイ病の子供、モンスターペアレンツ。さもしい。

 

◇しつけも勉強もできない

●政治、経済の崩壊からはじまりモラル、教育、家族、社会の崩壊。今日本は全面的な崩壊に瀕しています。

●一種の文明病。欧米思想の個の尊重が戦後65年深く根をおろす。子供中心主義。

●社会や国家につくすという美徳は、GHQが教育勅語を廃止し公より個を尊重する教育基本法を作成すると同時に消滅したといっていいでしょう。「公イコール国家イコール軍国主義」という連想を植え付け、弱体化しょうとしたのです。

●公を否定し個を称揚することはGHQが生み、継承した日教組が育てたもの。プラスGHQに忠誠をつくしたマスコミにより維持される。

 

◇対処療法に効果なし

●山ばかりで資源もない極東の小さな島国でありながら、古くより偉大な文学や芸術を大量に生み、明治以降には脅威の成長なしとげ、ついには五大列強の一つにまで発展させた、優秀で覇気に富んだ日本民族は一体どうなってしまったのでしょうか。

 

◇真、善、美は同一のもの

●この世のあらゆる事象において、政治、経済から自然科学、人文科学、社会科学まで、真髄とはすべて美しいものだと私は思っています。

◇根本的解決こそ美しい

 

 

第二章・・すばらしき日本文明

 

◇世界七大文明の一つ

●ハーバード大学ハンティントン教授の世界七大文明・・文明の衝突1990年代

世界七大文明とは・・中華文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、日本文明、東方正教会文明(ロシアなど)、西欧文明、ラテンアメリカ文明の七つです。 孤島での独自の文明・・神仏習合、武士道精神

●成熟した江戸末期・・「日本人はなぜこうも他のアジア人と違うのか」

●「貧乏人は存在するが貧困は存在しない」・・本物の平等精神。日本の封建制度。

●自己懐疑は知的態度か・・日本の封建制度の異質さ。戦後は「和魂米才」ではなく「米魂米才」。

●幻影と現実・・江戸時代から明治中期までは、貧しいながら平等で幸せで美しい国を建設していたのです。

●幸福、満足、正直

●「近隣諸国条項」という難問・・1982年宮沢喜一官房長官談・・「今後の教科書検定は近隣諸国の感情に配慮する」・・「中国、韓国、北朝鮮を刺激しかけない叙述はいけない」という政治的なものです。厄介。

 

 

第三章・・祖国への誇り

 

◇若者は「恥ずかしい国」となぜ言うのか

●間違った歴史観。学校教育の問題・・ほとんどの若者が自国の歴史を否定しています。

 

◇自国のために戦うのか?

●自国を卑下するという世界でも稀な傾向。

 

◇戦後、日本国の生存を握るものは?

●祖国への誇りを失ったのは戦後のことなのです。

●アメリカの戦後目標は「日本が二度度立ち上がってアメリカに刃向かわないようにすること」。

国務省、陸軍省、海軍省合同の「日本降伏後における米国の初期の対日方針」。

●日本の非武装化、民主化、新憲法

●アメリカは他国の憲法を自分達が勝手に作るというハーグ条約違反を行いました。

●「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という前文により、日本国の生存は他国に委ねられたのです。

●残念なことに「国益のみを愛する諸国民の権謀術数と卑劣に警戒して」が現実である。

●第九条の「陸海空軍その他の戦力は、これ保持しない。国の交戦権は、これを認めない」は前文の具体的内容です。

●日本はこの前文と第九条の作られたこの時点でアメリカの属国となることがほぼ決定されたのです。

●こうして万国の保有する自衛権を日本だけが失ったのです。

 

◇天皇、漢字、教育勅語

●天皇を元首からただの象徴にした。新たな皇室典範で十一宮家を皇室離脱させました。

●当用漢字を導入、使用漢字を大幅に制限した。・・日本文化の弱体化、愚民かが目的でした。

●世界から絶賛された教育勅語を廃止し、教育基本法で個人主義を導入し、日本人の特性を壊しました。

日本の底力を減殺する狙いでした。

 

◇「罪意識扶植計画」とは何か

●アメリカが日本に与えた致命傷は、新憲法でも皇室典範でも教育基本法でも神道指令でもない。占領後間もなく実施した、新聞、雑誌、放送、映画などに対する厳しい言論統制でした。

●WGIPに基づく「罪意識扶植計画」は、自由と民主主義の旗手を自任するアメリカが、戦争責任の一切を日本とりわけ軍部にかぶせるため、日本人の言論の自由を封殺するという拳に出たのです。

●「罪意識扶植計画」は日本の歴史を否定することで日本人の空洞化をも意図したものでした。

●軍国主義者と国民の対立にすり替える。軍人や軍国主義者が悪く米軍の責任ではない。二発の原爆投下による二十万市民の無差別大量虐殺を、日本の軍国主義者の責任に転嫁することで、自らの免罪符を得ようとしたのです。

●1999年のAP通信社が行った報道機関アンケートで、5位がベルリン崩壊、4位が米宇宙飛行士の月面歩行、3位がドイツのポーランド侵攻、2位がロシア革命、1位が広島・長崎への原爆投下でした。

 

◇一千万人を救うために二十万人を

●原爆投下は正しかった。ポツダム宣言の発表以前に原爆投下命令は下されていたのです。

●米英ソのヤルタ会談・・ドイツ降伏後三カ月以内にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦すること、その代わりに満州にある日本の権益、南樺太、千島列島をソ連に引き渡す密約。・・ソ連参戦前に原爆投下。・・戦後の米ソの覇権争いを念頭に入れたものだったのです。

●ソ連の参戦前に日本を降伏させる・・そのためにはできるだけ早期に原爆投下が望ましい。

●8月6日と9日に原爆を落とし、8日にソ連が参戦し、14日に日本がポツダム宣言を受諾し、その後スターリンは樺太と千島を占領し、更に北海道北半分への進行まで要求しました。トルーマンはこれを拒絶し、朝鮮半島の三十八度線以南への進行も阻止したのです。核の威力でした。

●原爆投下は、専らその実際の威力実験および終戦後のソ連との覇権争いを念頭に入れたものだったのです。

 

◇宣伝による洗脳が始まった

●1945年12月8日より、「太平洋戦争史」の宣伝文書を使わせた。翌1月には学校における歴史、地理、終身の授業を停止させた。「太平洋戦争史」は教科書として使わせました。人間を作る教育まで洗脳。

●日本はポツダム宣言という条件付き降伏をしたのであって、無条件降伏したのではありません。第5条に「吾等の条件は左の如し」と書いてある。6条から13条まで降伏条件が記載されているのです。

●十条「・・言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし」。第十三条は「全日本国軍隊の無条件降伏」です。日本国政府は条件降伏、軍隊は無条件降伏。にもかかわらず、アメリカはポツダム宣言をふみにじり、あたかも全面降伏したかのごとくふるまい学校で指導しました。

●無条件降伏なら何でもありで、GHQ制作であることを隠し「真相はこうだ」をNHKラジオでも宣伝。メディアを利用して洗脳教育まで取り組んだのです。

 

◇検閲によるメディア統制

●一方的なアメリカの見解、途方もない善悪二元論が日本人の脳に少しずつ忍び込んだ。アメリカによる洗脳が効果を表し始めました。・・長期戦略の天才アングロサクソン。

●「神道指令」を発令し、神道を弾圧することで皇室の伝統、日本人の心の支えを傷つけました。

●「罪意識扶植計画」を着実に実行するため私信まで開封しました。

●雑誌新聞のなどの事前検閲をおこないました。

●占領軍や合衆国に対する批判、東京裁判に対する批判、アメリカが起草した新憲法への言及、検閲制度への言及、天皇の神格性や愛国心の養護、戦争における日本の立場や大東亜共栄圏や戦犯の擁護、原爆の残虐性についての言及、などが厳しく取締まられ封印されました。

●違反した新聞や雑誌」は発刊停止となる。朝日新聞、ジャパンタイムズ、東洋経済新聞等。

●結果、新聞、雑誌、ラジオ等は、生き残るすべを学習し、戦前の皇室万歳からアメリカ万歳や容共路線に急転回しました。はしっこい日本人は豹変したのです。日本人の最もいやな点です。

 

◇公職追放は二十五万人以上

●罪意識扶植計画に協力的でない人間は公職追放された。政府や民間企業の要職につくことを禁止。

●GHQ、1946年の1月には公職追放令を作り、戦争犯罪人、戦争協力者、大政翼賛会などの関係者が追放され、翌年には、戦前戦中の有力企業の幹部も対象になりました。

●気象台長藤原咲平、鳩山一郎、石橋湛山、衆議院議員の八割が追放、政財界、言論界の有力者の大半が消えました。

●日本の中枢を占めた保守層が去り、左翼系やそのシンパが多くなりました。特に学校。

●日本中の大多数の人間が、公職追放令がでて一年もたたないうちに、GHQに意向に逆らわなように自主的に協力し始めました。

●画期的成功を収めた「罪意識扶植計画」は7年近い占領が終わり、公職追放令が廃止された後でも日本人に定着したままとなった。洗脳とは真におそるべきものです。モスクワのコミュンテルン(ソ連共産党は以下の国際組織)のもので、その影響下にあった日教組がそのまま教育の場で実践しました。自虐史観が根を張っているのです。

 

◇「国家自己崩壊システム」

●GHQが種をまき、日教組が大きく育てた「国家自己崩壊システム」は、今もなお機能しています。

特に教育界、歴史学界、マスコミというGHQによる締め付けがもっとも厳しかった部分においてです。

このシステムは容易に壊れないのです。

●東京裁判への批判、新憲法への批判、検閲により言論の自由を奪い洗脳を進めたアメリカへ批判、愛国心の擁護、原爆や無差別攻撃による市民大虐殺への批判、などは、すべて正当でありながら、公に語られるのは稀です。無論、教科書に載ることはありません。

●アメリカの言論操作はついに「歴史的事実」になったのです。公然たる批判を慎む、というのは属国のマナーでもあるのでしょう。

 

◇失われた日本人としての誇り

 

◇原爆投下への正当化

●事前検閲は違反です。ポツダム宣言第十条、合衆国憲法修正第一条にも謳っています。言語を絶する暴挙なのです。

●広島と長崎への原爆や日本中の都市に対する無差別爆撃が、人道上の罪であることは言を俟ちません。

●1907年に結ばれたハーグ条約第二十二条、「無制限の害敵手段を使用してはならない」や第二十五条、「防守されていない都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することは禁ず」にも違反しています。無差別戦略爆撃は大統領の許可が必要。東京大空襲で十万人が死亡。

水戸、八王子、長岡、富山、

●原爆二つはもちろんのこと、1945年に実施されたこれらの無差別爆撃は、アメリカ合衆国の綿密な計画の下で組まれたものであり、飽くことなき大量虐殺への執念によるものだったのです。

●一般の老若男女55万人の生命が奪われた。東京裁判では取り上げられませんでした。

●原爆投下には「あやまちは二度とくりかえしません」といい、日本焦土作戦を指導したカーティス・ウメイ司令官には日本政府が勲一等を与えました。自虐国家日本は絶好調なのです。

 

◇大多数の戦争は宣戦布告なしだった

●新憲法や教育基本法を押しつけ、日本のエリートを壊滅すべく旧制中学、旧制高校を廃止したのも、「占領者は現地の制度や法令を変えてはならない」という趣旨のハーグ条約43条に反しています。

同じ敗戦国のドイツは、憲法や教育基本法などの押しつけを拒否しました。

●1907年のハーグ条約、「開戦前の宣戦布告を義務付けた」。

ハーグ条約以降も、アメリカは1916年ドミニカ戦争で違反。第一次世界大戦も第二次世界大戦も奇襲だった。ハーグ条約は単に開戦儀礼。二十世紀の戦争は大多数が宣戦布告なしだった。

●アメリカ参戦のため、アメリカ国民を扇動するための「真珠湾奇襲を恥ずべき行為」と糾弾したのはルーズベルトです。

●不意打ちにこだわるアメリカが、ベトナム戦争でもアフガニスタン戦争でもイラク戦争でも、宣戦布告を忘れてしまいました。

 

◇ナショナリズムよりパトリオティズム

●「罪意識扶植計画」で禁止された愛国心の擁護と育成は、世界中どこでもやっていること。アメリカでも。当然のこと。家族愛、郷土愛、祖国愛の三つの愛が基本。明治以来、愛国心という言葉で両方を表してきた。「国家主義」及び「祖国愛」の語で二つを峻別すべきと思う。

 

◇東京裁判という まやかし

●東京裁判もニュールンベルク裁判も「勝利国による敗戦国への復讐劇」である。両裁判ともに、連合国側の戦争犯罪は不問に付されました。

●1939年ソ連のポーランド侵攻、米英のドイツ全土への無差別爆撃で30万人の市民虐殺、中国による日本に対する挑発、真珠湾攻撃の前からアメリカの中国への軍事物資と航空隊派遣、も不問。

●実際は真珠湾のずっと以前から、アメリカは、無論宣戦布告もなしに日本に対して敵対行為を始めていたのです。

●広島、長崎への、人類にとっていまだに唯一無二の原爆投下、そして東京大空襲を含む焦土作戦も無論

取り上げません。ヒットラーやスターリンの暴挙に匹敵するアメリカ人の悪夢です。

●1945年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破り、174万人の兵力、5000台の戦車、5000機の航空機をもって満州に侵略したことも、日本の降伏後にソ連が、60万以上の邦人をシベリアに送り強制労働させたのも一切不問です。

●日本政府は8月14日ポツダム宣言を受諾し、16日には停戦と降伏を表明したが、千島列島は18日以降9月5日までの間に火事場泥棒宜しく占領されたのです。ロシア兵の強姦、暴行、虐殺により民間人死亡者は17万人にも上りました。それの凶暴野蛮は言語に絶するものでした。

●北満州に残された開拓民27万人の運命は悲劇だった。しかし東京裁判では全く取り上げられませんでした。あまりの不公平に弁護側が抗議しても、白豪主義をとるオーストラリアのウエッブ裁判長は「この裁判は日本を裁く裁判であり、連合国の行為とは無関係である」の一言で退けた。勝者の敗者に対するリンチであることを認めたとも言える発言でした。

 

◇正当性を欠く裁判

●ブレイクニー弁護人の動議、「広島、長崎への原爆投下という空前の残虐を犯した国に人間に、この法廷の被告を『人道に対する罪』で裁く資格があるのか」、も詭弁により斥けられました。

●裁判資料の閲覧、反対尋問の機会も与えられなかった。弁護側の有力資料は却下。

その結果、カチンの森事件と南京大虐殺が登場しました。

 

 

第四章・・対中戦争の真実

 

◇南京大虐殺の不思議

◇ティンパーリもスノーも南京にはいなかった

◇東京裁判で再登場した

◇安全國逃げ込んだ便衣兵

◇証拠は捏造されていた!?

 

◇「大虐殺」は歴史的事実ではなく政治的事実

●ドイツのアウシュビッツ大虐殺に対する日本の「南京大虐殺」は欲しかった。もう一つは原爆二発を相殺する被害者が欲しかったと思います。

●偽証罪も検証もない裁判で、中国とアメリカが結託して「南京大虐殺」をでっち上げたかもしれません。かくして「罪意識扶植計画」の目玉となりました。決定的証拠が出てくるまでは創作だと信じています。

●アメリカは肝心のものは情報公開しません。真珠湾攻撃前一週間の暗号解読資料、ケネディ暗殺犯、南京大虐殺と原爆投下の関係資料。

 

◇復讐劇と化した訴訟指揮

●「日本は挑発挑戦され自衛のために起った」とうローガン弁護人の弁明も却下されました。

 

◇「八紘一宇」は世界征服にあらず

●罪状の「世界征服の責任」は?

●白人の牙から同胞アジア諸国を守るという、幕末からのアジア主義であり、気概のほとばしりであった。

 

◇「共同謀議論」のムリ

●東京裁判の目玉は、」1928年から1945年までの17年間、日本は一貫してアジアを侵略して支配下に置くため謀議を企て、そのために満州事変、日中戦争、太平洋戦争を引き起こしたということでした。これを共同謀議したとして罪を問われたのがA級戦犯と言われる28人でした。本当にこの28人が世界征服やアジア制服の計画を練って日中戦争や日米戦争にまで至ったのか? 17年間に16回も内閣が変わっている。このことはパール判事が全面否定しています。

●残念ながら日本人には、大局的視野に立って長期戦略を組み立てる、という能力があまりない。この能力はアジア人にもなく、ラテン民族やスラブ民族も得意ではありません。最も得意なのはアングロサクソンです。日本は土壇場まで対米戦争計画はほとんどなかった。

 

◇「オレンジ計画」とは

●一方のアメリカは日露戦争の終わった翌年あたりから、テオドア・ルーズベルト大統領の指示で対日戦争計画を練り始めました。オレンジ計画です。大英戦争のレッド計画もあった。

●19世紀末に西海岸まで到達し、ハワイ、フィリピンを獲得したアメリカにとって、次のフロンティアとしての目標は巨大市場中国でした。そしてすでに満州で利権を独り占めにし、中国への道に立ちはだかるのが、強力な海軍力を持つ小癪なイエローモンキーにほんだったのです。

●オレンジ計画の1911年のものには、「米国は独力で日本を満州から撤退させるべく、大陸への介入で鳴く、海上の作戦によって戦うことになるだろう。日本の通商路を海上封鎖することで息の音を止めることになろう」という趣旨のことが書いてあります。30年後の戦争はその通りになりました。

●1922年のワシントン条約で日英同盟を解消、日本の戦艦保有量を米英日で5対5対3にさせる軍事上の不平等条約です。日露戦争から対日戦争に向けて35年間も準備していたのです。

●その後も日米戦争だけは避けたい日本に対し、アメリカは太平洋の覇権をめぐって日本との激突を必然視し本気で準備しました。第二次大戦で英ソが窮地に陥ってからは日本に先に手を出させようとありとあらゆる努力を重ねました。日米戦争に限って言えば、共同謀議で告発されるべきはむしろアメリカだったのです。

 

 

第五章・・「昭和史」ではわからない

 

◇「侵略」の定義とは何か

●東京裁判の核心、戦後日本を覆った暗雲は、日中戦争および日米戦争が日本の一方的侵略であったかということに帰着します。

●侵略とは、目的を問わず、相手方勢力や相手方領域を攻撃する行動、一方侵略とは、相手の主権や政治的独立を奪う目的で行われる侵攻のことです。

●侵略の私が妥当と思う定義は、「自衛のためではなく、軍事力により他国の民族自決権を侵害すること」です。1919年パリの講和会議の国際連盟の規約が決められた、その規約の「委任統治」には、「自ら統治できない人々のために、彼らに代わって統治してあげることは、文明の神聖なる使命である」という趣旨が書いてあります。

●この論理により、イラク、ヨルダン、パレスチナはイギリスの、シリア、レバノンはフランスの委任統治領となったのです。これは侵略とはならない。侵略かどうかは、本質的には列強の判断次第だったのです。

 

◇誰が法的成否を決めたのか

●2001年アメリカハーバード大学の協力により「第3回韓国併合再検討国際会議」が開かれました。韓国のイニシアチブで開催、日本による1910年の韓国併合が国際法からみて違法であるかどうかの確認。結論は欧米の研究者達に全く受け入れられず違法でないという結論だった。

●ケンブリッジ大学教授で国際法の権威であるジェームズ・フロフォード氏は次のように語った。「韓国併合は英米をはじめとする列強に認められている以上、違法と言えない」。

 

◇「昭和史」という不思議

●切り離すのは無理。それ以前は切り離すという暗黙の作業が含まれる。注意が肝腎。

●何故なら、十六世紀以前の世界史の半分は、恥ずべき人種差別に基づいた、残虐非道な欧米の侵略史と言って過言ではありません。人道、正義、文明の神聖なる使命、などのもっともらしい旗印の下、白人がアジア、アフリカ、南北アメリカ大陸と次々に土地を奪い、愚民化した住民を家畜のごとく使役し、苛烈な搾取を行い、従わなかったものは虫けらのように殺す、という歴史でした。

●帝国主義に遅れて参加した日本が、海外に欧米列強と同様の利権を求めて出て行ったのは、二十世紀に代わる頃から出、その頃、取りたいものを取った欧米列強の侵略は下火になっていた。残り大きな利権と言えば中国や満州くらいであり、後進日本の帝国主義は昭和になった頃に最盛期を迎えましたから、日本の乱暴ばかりが目立ちやすいのです。

●昭和だけを切り取るということは、四世紀もの長きにわたる欧米列強の酷薄を免罪し、日本だけを貶め、「東京裁判史観を認める」ことに導かれる危険を高めるのです。

 

◇清国は満州族の国

●裁判では満州事変以降が日本の侵略とされました。

●南満州鉄道とはもともとロシアが建設した鉄道で、この鉄道とその支線は日露戦争で日本が勝利したため、1905年のポーツマス条約でロシアから、清国の許可を得たうえで、旅順、大連の租借権とともに日本に譲渡されたものです。しかし日本は日露戦争で多大な犠牲を払い占領した広大な南満州を、寛大にもそのまま清国に返しました。

●清国とは、漢族ではなく満州族が支配する国です。ロシアから取り返した日本に感謝し、南満州鉄道の譲渡を認め、日本軍の常駐を認めた。日露戦争後の10年間ほどは日中関係は珍しくとてもいい時期だった。

●初代総長後藤新平が就任し、鉄道事業、近代都市建設、炭鉱開発、製鉄業、港湾、上下水道、電力、といったインフラの整備まで行った。日本がポーツマス条約で得た満州における権益を着実に実行し始めたのです。

 

◇排外思想をもった国民党

●一方の中国では相変わらず混沌が続いていました。1911年に孫文による辛亥革命が起き、その翌年、清朝が倒れ中華民国が成立します。孫文亡き後の国民党の蒋介石や、コミンテルン指導下の中国共産党などが排外思想を国民にばらまきました。「困窮の原因は外国人にある」を煽る。日露戦争後の20年の間に日本が行った満州の近代化の努力に感謝する人々ではなかった。

 

◇世界の共産化を図るコミュンテルンの影

◇「リットン調査団」は何を語ったのか

●日本は満州全土を占領するや、1932年満州国を建国しました。国家元首には清朝最後の皇帝溥儀が就きました。関東軍が復辟を願う溥儀を利用し、また同時に溥儀が関東軍を利用したのです。

●この年、中国が国際連盟に満州事変を訴えた。リットン調査団が派遣された。

●イギリスR・Fジョンストンの「紫禁城の黄昏」第16条でリットン報告書の(2)に異議を唱えている。満州には満州の独立運動が公汎にあったと明言しています。

●調査団の提言(2)・・満州には中国主権下の自治政府を樹立し、非武装をする。(3)日本の特殊権益を認める。以後20年間、満州は歴史上はじめて漢人の主権下に入ったのです。ただし軍閥や馬賊に支配されており、実効支配はされていませんでした。

 

◇満州は中国のものなのか

●満州事変は今日の国際常識では文句なしの侵略戦争です。主権者の中国に無断で軍隊を侵攻させたうえ、占領地に満州国という傀儡政権まで作ったからです。五族協和(満州族、蒙古族、漢族、朝鮮族、日本族の協和)。しかし主導権、国防、治安、は日本に委ねられていた。どう見ても侵略となります。

●なぜリットン報告書は「国連監視の下で自治政府を作り日本の特殊権益を認める」という結論を出したのか。イギリスのリットン伯爵を長とする英独仏伊米合わせて5名の委員、オブザーバーは日本と中国から1名の調査団だった。

●理由は3つ。第一は、満州とは歴史的に満州族のものでした。歴素敵に中国とは万里の頂上より南の、漢族のしはいする土地を指していました。ところが1644年、満州に生まれた清国が万里の長城を越え北京を占領し満州人による中国支配がはじまったのです。この清国は百年もしないうちに万里の長城を大きく越えて南北モンゴル(今の内蒙古と外蒙古)、西は東トルキスタン(今の新疆)やチベット、東は台湾まで領土を広げてしまいました。

●中国が現在、台湾、新彊、チベットを自領と言うのは満州族の作った清国領土が最大に達したこの頃の版図を基準に考えているからです。

●中国、すなわち漢族の国は満州族、朝鮮族、日本族を二千年間も東夷と呼び蔑視していましたが、そのうちの満州族に征服されていたほぼ250年間ほどの状態を基準としているのです。

●全盛期から100年もたたないうちに清国は衰退を始め、19世紀になるとイギリスを筆頭に列強諸国の餌食となり半植民地となりました。

●1911年、漢族の孫文らが清朝打倒に立ち上がり、(辛亥革命)、翌1912年、南京に中華民国を樹立し、清朝最後の皇帝である宣統帝(溥儀)は退位して清国は276年の幕を閉じたのです。この地点まで、中国イコール漢族が満州を直接統治したことはなかったのです。

 

◇次々と犯された日本の権益

●第二に、張作霖は日露戦争中、ロシア側のスパイとして活動していたため日本軍に捕まった人間です。息子の張学良は激しい反日、国民党と一緒に活動。リットン報告書は国際法で認められた日本の特殊権益が次々と犯されたことが日本をこのような行動に駆り立てたと考えたのです。

 

◇移民受入先としの大地

●第三は経済的側面です。1929年のウール街での株式暴落の諸国への波及。英米仏輸入高関税。日本は輸出ができなくなった。

●大きな植民地を持つ国がブロック経済に走る。日本も生存のためには植民地を持たなくては、と切実に考えるようになったのです。さらに人口問題。明治20年代から国策として貧困農民層のブラジルやアメリカへの移住が奨励されていた。1924年アメリカで排日移民法が成立。移民受け入れ先として満州へ。国民、新聞もこぞって満州進出支持したのです。

 

◇帝国主義時代のルールとは

●今から見ると、絵にかいたような侵略と見えるのに、リットン調査団があのような少々日本よりの結論を出した理由の底には、これら三つのことがあると考えられます。

●満州が中国の主権下といえグレイゾーンだったこと、日本の権益は条約によって守られていたものなのに中国がそれを無視する違法な行為に次々に出たこと、大恐慌でのブロック経済により市場を締め出されたり、アメリカへの移民さえ拒否された日本の生存のために外に出るしか他なかったなど、日本の立場を斟酌したのです。

●西ヨーロッパの赤化に失敗したソ連が、満州、中国に焦点をしぼり活動を活発化してきているから、それを防ぐ意味で満州の日本の勢力が存在することは悪くないと思ったことでしょう。

●満蒙を中国から切り離す。ソ連の南下、アメリカが太平洋から攻めて来る可能性ある。ソ連やアメリカが相手となれば資源獲得のためにも満蒙は不可欠と考えていました。満州は鉄石、炭豊富。

●いずれにせよ、満州事変から満州国建設についてリットン調査団はこのように結論を下しました。

●中国は19世紀以来、列強から領土を蚕食される。弱肉強食が帝国主義の唯一のルール。

日本も例外ではない。パリ講和会議での山東半島の権益獲得は合法的となった。当事者中国をないがしろにしたやり方は余りにも卑劣です。

●清朝末期から第二次世界大戦までの100年間の、列強と中国の関係は、狡猾かつ卑劣な列強の合法的進出に対し、無恥蒙昧な中国が不法だが同情すべき暴行虐殺で対抗する、という図式だったのです。

●これが帝国主義の姿だった。日本は他の列強が散々してきたことを手本にしたのでした。

 

◇「昭和天皇独白録」はこう語る

●欧米諸国も歓迎したリットン報告書を日本は拒否したのです。日本政府は満州国を承認しました。

5.15で殺害された犬養首相はリットン報告書と似通った考えで、独立国ではなく中国主権下の親日政府実現を思っていました。

●1933年国際連盟総会でリットン報告書は可決、松岡洋右全権は退場し、日本は国連から脱退。昭和天皇もリットン報告書は妥当と思われていた。「昭和天皇独白録」。昭和天皇の直観。政府方針に強い不満を持っていました。

●関東軍が独断で満州事変を起こした後、政府は国連脱退という愚行まで行ってしまいました。

●リットン報告書を受諾して、すなわち名を捨て実を取り、アメリカやイギリスにも満州国の利権を一部譲ってやる位のことをしておけば、日本は英米と協力し共産ソ連の南下に対抗できた。絶好の機会を逸した上に日本は世界の孤児となったのです。

 

◇盧溝橋で何が起きたのか

●中国軍による度重なる協定違反の攻撃。上海において始まった。無数の挑発に耐えられなくなった結果、日中戦争が始まった。

 

◇得るもののない日中戦争

●政府、陸軍参謀本部にとって中国との戦争は気乗りしないものだった。優先は宿敵ソ連との戦争、中国の利権を狙うアメリカとの戦争だった。プラス建設された満州国を後方基地に育てる必要あった。

●ドイツが日独防共協定を結びながら中国に肩入れするという裏切りに近いことをしていた。当時蒋介石軍の使っていた武器の大半はドイツ製だった。ドイツ人ラーベ。「ラーベの日記」の虚偽。

 

◇上海陥落

●ドイツ軍顧問ファルケンハウゼン指導の蒋介石率いる、国民政府軍(中国軍)を突破し、上海を陥落させた。南京へ潰走する国民政府軍を追撃し、南京戦が始まった。

 

◇蒋介石の怒りも当然だった

●1935年あたりから日本は満州国の隣の華北を影響下におくことを画策した。戦線拡大。

1938年近衛首相・・和平の道を閉ざす声明。国際社会は、日本が自衛的戦争から和平を求める意思がないととった。

 

◇黒幕は誰だったのか

●短期間で終わると思っていた戦争は南京が陥落しても終わらず。蒋介石が強気。裏には上海戦が始まるとすぐに結んだ「中ソ不可侵条約」がありました。

●1935年のコミュンテルンで宣伝されたように、ソ連の仮想敵国はヨーロッパではドイツ、アジアでは日本でした。日本と中国を本格的な戦闘に陥れることが一番だった。

●そのためにはまず、壊滅寸前だった毛沢東率いる共産軍と蒋介石率いる国民政府軍との戦いを止めさせ、共同して抗日戦争させることです。中ソ軍事同盟により軍事援助を行った。国民政府軍、共産軍を支援し満州への進行を狙った。さらに共産主義を中国全土に広め、毛沢東の共産軍を整備強化しておけば国民政府軍を叩き潰すことも可能になる。スターリンが戦争を続行させていた黒幕でした。

 

◇現代の価値観で歴史を判断するな

●昭和の初め頃から、スターリンは日本軍と国民政府軍の本格戦争をさせるため、中国共産党を操って、日本軍人や日本人居留民を虐殺するなどありとあらゆる挑発を行うように仕向けていました。日中戦争とは正規の戦争とは言えない泥沼でした。

●中国共産党は当時、単にコミュンテルン支部に過ぎなかった。スターリンの入知恵。反共の蒋介石。スターリンの野望。

●日本に中国の主権を奪い日本領とする意図はなかった。

●上海で本格的な日中戦争を始めたのは中国でした。蒋介石国民党。

●数えきれないテロ行為は、主に中国共産党が日本を戦争に引きずりこむために行った挑発だった。

●真珠湾で本格的な日米戦争を始めた日本を、とことん攻撃し占領までしたアメリカが侵略したといわれないのと同様、日本が中国を侵略したとは言えません。当時の常識は自由戦争。とは言え、現代の定義から言えばこれまた侵略です。

●すべての国に民族自決権があります。また正式な条約で認められた日本人租界のある天津、漢口、上海などを中国の攻撃から守るため日本は戦争に入りましたが、そもそも租界とか特殊権益は強者が弱者に突き付けた条約によるものです。

●帝国主義時代のルールでは認められましたが、数十万の軍隊を用いて中国領土の約半分とほとんどの要所を何年も占領し続けたのですから、民族自決にしっかり抵触しています。すなわち、東京裁判で問題とされた満州事変から日中戦争にかけては、現代の定義では侵略と見なせるのです。

●もし現代の定義を適用して日本を侵略国というのなら、英米仏独伊露など列強はすべて侵略国です。

●ヨーロッパ近代史とはアジア・アフリカ侵略史となりますし、アメリカ史とは北米大陸太平洋侵略史となります。清国も侵略国です。この二世紀を彩った帝国主義とは弱肉強食を合法化するシステムだったからです。

 

●最も重要なことは現代の価値観で過去を判断してはいけないということです。人間も国家もその時の価値観で生きるしかないからです。

 

 

第六章・・日米戦争の語られざる本質

 

◇アメリカの本意図は

●日中戦争、日米戦争と分けるのが不可能なほど連結している。大東亜戦争が実態に即した名称なのです。

●戦後、GHQが大東亜戦争という言葉を禁止し、日中戦争、太平洋戦争という言葉を使わせるようにした。

●大東亜戦争という言葉は大東亜共栄圏という日本の掲げた大義を認めるような印象があり、切り離すことで、自らの日中戦争への深いかかわりを糊塗しないと、「日本の不意打ち」が成り立たなくなってしまうからです。

●実はソ連だけではなく米英も日中戦争に深く関わっていたのです。米英は日中戦争の始まった頃から、公然と蒋介石を支援していました。初期はドイツ、それ以後はソ連が武器援助、米英がそれ以外の物資の援助、独ソ戦開始の1941年以降はほぼ全面的にアメリカが援助しました。米英ソの大規模な援助がなければ、日中戦争など日本軍が考えていた通り、1937年南京が陥落した時点で国民政府軍と休戦となっていた可能性が高いと思われます。

●百万近い日本軍を中国大陸に貼り付けさせ、日中両国に膨大な犠牲を出させ疲労させたのは、日本の意思ではなく中国の意思でもなく、米英ソの意思だったのです。

 

◇米英が中国を支持した理由

●アングロサクソンとは世界で最も長期戦にたけた民族です。彼らが中国支援に傾いたのは、5つの要素があったからと考えられます。

 

●第一は、市場としての中国です。中国市場を日本に独り占めさせない。

●フロンテア精神の国アメリカは十九世紀までに北米大陸を制覇し、続いて太平洋を制覇し、潜在的巨大市場の中国大陸を次のフロンテアと見なしました。

 

●第二はナチスドイツの台頭です。日中の戦争で、英ソ共に西側のドイツ国境に軍備増強できた。またアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、ソ連に友好的で、ソ連を守りたいと考えていました。

 

●第三は人種です。日本と中国の戦争を長引かせ、両者共倒れとなり、植民地権益への脅威となり始めた有色人種の日本を抑えることができるとの、阿吽の呼吸が米英にあったと思われます。そのうえ、日本は第一次世界大戦のパリ講和条約で、「人種差別撤廃」を提案したとんでもない国なのです。

●当時人種差別は、イギリスの植民地を見ても、アメリカの黒人を見ても、極めて激しかったからです。黒人に普通選挙権が保証されたのは1965年です。

●日米戦争と人種差別については、サセックス大学の歴史学者クリストファー・ソーン教授がこうかいています。「ルーズベルトによれば、日本人の侵略行動はおそらくその頭蓋骨が白人に比べて未発達であるせいだというのであった」「チャーチルが中国人のことを『細目野郎』といい」「アメリカとイギリスは、極東をめぐる意見の対立にもかかわらず、1941~1945年の戦争に関して、本質的には西側の白人の政治的・経済的秩序を代表していた。両国とも『持たざるもの』ではなく、『持てるもの』であり、『帝国主義的』国家であった」。「ネルーの妹パンディット夫人は、1945年にアメリカを訪れたとき、太平洋戦争は本質的には人種差別戦争だと述べた」

●日中が手を携えるということは白人にとって悪夢中の悪夢だったのです。これは現在に続いています。この二つを対立させる、というのは今も欧米の基本戦略なのです。

 

◇揺れ動く米国世論

●第四は、中国の世界一の宣伝力と、それに動かされた米国世論です。

●中国へ日本が無法無慈悲な侵略を行っている、という「国民党中央宣伝部国際宣伝処」が中心となり国際世論とりわけアメリカに十八番と言える嘘八百の大宣伝を行った。米国世論への工作。蒋介石夫人宗美齢。ルーズベルト夫人。抗日戦への援助を訴えた。タイム社長ヘンリー・ルースは親中反日。

●宗美齢は、日中戦争でアメリカを中国べったりにする上で決定的な役割を果たした。

●日中戦争後の国共内戦においても彼女は国府軍への援助をアメリカに求めたが、ソ連スパイが浸潤していたトルーマン政権に拒否され、やむなく蒋介石と共に台湾へ逃げ出すことになりました。

 

◇マニフェスト・デスティニー

●アメリカでは、1830年にジャクソン大統領が議会で、「インデアンは白人と共存し得ない。野蛮人で劣等民族のインデアンはすべて滅ぼされるべきである」と演説した。

●1940年代には、「マニフェスト・デスティニー(明白なる天命)」というスローガンで、インデアンを虐殺し、黒人を奴隷化しながら白人種が西部開拓を推し進めることを正当化しようとするものです。バッファロー絶滅。メキシコの属国の「テキサス共和国を併合」すると同時に、メキシコに戦争を仕掛け、カリフォルニアやニューメキシコ、ネバダ、アリゾナ、ユタ、コロラドなどの諸州を強奪し、アラスカをロシアから二足三文で買収しました。

●1980年代までに西部をすべて手中にすると、今度は新しいフロンテアを海外に求めました。「マニフェスト・デスティニー」は自由、平等、キリスト福音を広める明白な天命と変質したが、実際は帝国主義的な領土拡大を正当化するためのものでした。スペインに戦争を仕掛け中米を植民地に。ハワイ王国を滅ぼし併合。フィリピン、グアムをはじめ太平洋の島々を植民地にした。最後の大フロンティア、中国に手が届いた。ここには強国の日本の他に英独仏露などの列強がすでに権益をもっていた。後発のアメリカは門戸開放、機会均等、領土保全などのきれいごとを唱えながら中国市場へ進出し始めた。

●アメリカ人の意識の中で中国は「アメリカのイデオロギーと経済的拡張の新しいフロンテアのシンボル」となったのです。(『アメリカ外交の悲劇』ウイリアム・A・ウイリアムズ著)

 

◇親中反日の精神

●第五はアメリカに広く深く根付いていた親中反日の精神です。中国に来た宣教師・日本人よりはるかに教化しやすい中国に好意。

●そうした中の満州事変。蒋介石がキリスト教に改宗。パール・バックの大地がピューリッツァー賞でアメリカ人の間に親中感情が高まる。

●日露戦争で勝った日本を中国権益におけるアメリカのライバルと見なすことで生まれた反日感情は、アメリカ社会で成功し始めた日本人に対する反感と重なり、1924年に「排日移民法」などが定められた。1931年の満州事変を通して更に確かなものになりました。

●中国への判官びいき。タイムは蒋介石を「中国のナポレオン」とまで称えた。

●アメリカ人にとって日本は、すでに西洋と対等な地位を占め、白人優位に楔を打ち込もうとする生意気な帝国主義者であり、一方中国は未開ながらも巨大であらゆる可能性を秘めた、かつての自分たちを思わせるロマンチックな夢の天地だったのです。

●アメリカは、いずれ巨大な歴史の力が中国を日本以上に発展させる。日本との関係を犠牲にしても中国との友好を築こうと思っていたのです。イギリスや他のヨーロッパの諸国も同じでした。この中国びいきは今も欧米諸国に潜在し息づいているのです。

 

◇宣教師というフィルター

●このような反日感情が、主に2500人という在中国宣教師やその関係者からの偏った情報によってアメリカで醸成されました。宗美齢、パール・バック、タイム社長ヘンリー・ルースなども宣教師がらみです。彼らは本国に親中反日のニュースをひっきりなしに流したのです。南京事件もそうでした。

●布教活動が国民政府に嫌われないこと、中国の布教活動が実を上げないと米国からの寄付金や支援金

が増えない、宣教師達は中国があたかもキリスト教国になりうるかのような錯覚をアメリカ人に広め、中国への援助を増加させました。在中および本国の宣教師達はアメリカにおける一大ロビイストとなっていったのです。宣教師やその関係者達により作られた親中反日。宣伝力は中国と日本は格段の差があった。

●このアメリカの宣教師達の主目的は決して達成されませんでした。戦後、共産軍が日本軍の代わりに入って来るや、キリスト教もどきの人々はあっという間に共産主義者に改宗してしまったからです。

●中国人にとって政府や宗教やイデオロギーなどどうでもよいのです。三度の食事をきちんと与えてくれるならそれ以外はどうでもよい、という現実主義が三千年の伝統なのです。

 

◇三つの援蔣ルート

●アメリカが日米戦争に先立つ日中戦争において既に中国への膨大な援助を与えていたこと、それに太平洋における唯一の強敵であり憎むべき日本を疲弊させようと企んでいたことは明らか。

●米英による援蔣ルートは全部で三つありました。

●一つ目は香港ルート。イギリスが租借していた香港で陸揚げし、内陸部へ運ぶルート。これは日本軍が1938年広州を占領したため消えた。

●二つ目は仏印(フランス領インドネシア、ラオス、ベトナム、カンボジア)ルートで、ベトナムのハイフォン港から昆明まで。日本軍が1940年北部仏印に進駐したため消えた。

●三つ目はビルマルート。通常援蔣ルートというとこれです。イギリス領ビルマから昆明まで。日本軍が1942年ビルマを占領したので消えた。その後はイギリス領インドのアッサムからヒマヤラ山脈越えて空輸および山越えの陸路ルート。日本軍がインド北東部でインパール作戦を行ったのはこのルートを潰すためでしたが補給がうまくいかず失敗。

●日本軍は東南アジアを侵略したとよく言われますが、主たる理由はこの援蔣ルートを潰すためでした。実際1940年の仏印ルートが消された後は中国での戦闘は下火になった。日中とも戦争などしたくなかったからです。

●日中戦争はソ連が火をつけ、その日が消えぬよう米英が懸命にあおり続けた戦争だったのです。米英ソの目的は十二分に達せられました。

●日中戦争で日本軍は100万近い軍隊を占領地と補給線の防御のやめ中国に駐留させることとなり、ソ連やアメリカとの戦いに備えるべき国力をすり減らしました。またスターリンの思惑通り、反共の国民政府軍はとことん打ち破られたため、終戦後には主敵の共産軍にあっという間に負けて台湾に追い出されました。しかし米英は最終的には策士スターリンに完敗しました。日本を追い出した後の満州、中国、北朝鮮はすべて共産化され、門戸開放どころではなくなってしまったからです。

 

◇潜行する爆撃計画

●アメリカの中国への援助は援蔣ルートに止まりません。真珠湾攻撃の一年前、1940年12月、ルーズベルト大統領、財務、国務、陸軍、海軍の四長官が集まり、中国南東部基地から長距離爆撃機B17を用い、日本本土の工業地帯を爆撃する計画を相談しました。この計画はさらに米統合参謀本部で詰められ、「JB三五五」という作戦計画となり、翌1941年7月23日に大統領の許可を得ました。350機の戦闘機と150機の長距離爆撃機により、9月には東京や大阪に焼夷弾をばらまくものでしたが、ヨーロッパでの需要を優先で縮小されました。通称フライング・タイガーズと呼ばれる戦闘機だけの空軍が国民政府軍を支援することになりました(『ルーズベルト秘録』)。中国の記章を付けた100機の米軍戦闘機に搭乗するのはアメリカのパイロット達でした。200人の地上整備員まですべて米軍人。インドの英空軍と協力。

●日中戦争が宣戦布告をしていないのを利用してアメリカが一方的かつ大々的に中国(国民政府軍)への無償の軍事物資援助(武器貸予法)をしていたことを考えても、日米戦争は実質的には12月の真珠湾攻撃以前に、アメリカの直接攻撃すれすれの間接攻撃によりすでに始まっていたのです。

 

◇資源を求める日本

●1940年の仏印ルートへの北部仏印の進駐は、フランスの許可を得、アメリカも承認していた。ところがアメリカは進駐にたいしてすぐさま鉄屑の対日禁輸、続いて12月には鉄鋼、翌1941年1月には銅、亜鉛、ニッケル、と、じわじわと禁輸を拡大していきました。必要作用減の石油はまだ禁輸となっていませんでしたが、肝心の航空機ガソリンはすでに禁輸されていました。

●日本は石油資源の豊富な蘭印、オランダ領インド(今のインドネシア)からの石油輸入を図ろうとオランダと交渉しましたが、すでにアメリカの手が回っていて拒否されました。

●資源を求めて1941年4月から近衛内閣はアメリカと直接交渉を始めましたが、のらりくらりだった。それどころかアメリカハ1941年7月25日には在米日本資産を凍結するという挙に出ました。これでは貿易決済もできません。これは国家による強盗行為であり、宣戦布告に準ずるものです。続いて英蘭もこれに同調。

●外交交渉で埒があかず、1941年7月戦略物資のある南部仏印に進駐。アメリカは南部仏印進駐の4日後に石油の対日全面禁輸を発表し、英蘭がそれに続きました。中南米からの石油輸入を防げるためパナマ運河も閉じる。日本の石油備蓄は2年分。鉄も石油も7割以上はアメリカだった。このままでは日本経済の破綻は時間の問題です。

●日本の仏印進駐の1か月後の8月末には、イギリスとソ連は示し合わせ、石油確保でイランに侵攻。在米日本資産の凍結、英蘭を引き込んでの石油や鉄などの対日全面禁輸は、非人道的な侵略を許さない、という表向きとは全く異なる顔をもつものだった。

●日本からいかなる敵対行為も受けていないアメリカが、日本に対しこれほどまでに強硬かつ性急な制裁を行ったのは、ヨーロッパが緊急事態となっていたからです。

●1941年6月に独ソ戦が始まり、ドイツ軍がモスクワ周辺まで攻め込んでからは、どうにかして日本に「最初の一発」を撃たせるよう苦心していました。日米戦争が始まれば日独伊三国同盟により恐らく米独戦争が始まり、晴れてソ連やイギリスを助けるためにヨーロッパへ軍隊をおくることができると考えたのです。ドイツの最初の一発をと、Uボート攻撃だったが挑発に乗らなかった。

●コミュンテルンのスパイ、尾崎秀美、西園寺公一、からの情報をソ連スパイゾルゲがモスクワに送る。日中戦争の泥沼化の裏には、政府、軍部に食い込んだ多くの共産主義者やコミュンテルンのスパイがいた。

●すべての資源を止められた日本の選択肢は、アメリカの脅威に屈するか、意地を張って野垂れ死にするか、勝算のないアメリカとの戦いを始めるか、の三つしかありません。初めの二つは誇り高い日本人にとって論外でした。日本はもっともしたくない日米戦争を準備しつつ、1941年4月かワシントンで行われていた日米交渉に全力をつくすことになりました。

 

◇ハル・ノート

●「帝国国策遂行要領」で日米首脳会談を訴えるもルーズベル大統領は断る・・尾崎の逮捕の2日後に近衛首相総辞職。

●代わった東條首相は、対米英蘭戦争の本格的な準備にかかるとともに、11月20日までにアメリカに最終交渉案を二つ用意した。11月26日、ルーズベルト大統領はいわゆる「ハル・ノート」を交渉役の野村、来栖大使に逆提出しました。日本軍の仏領インドネシアばかりか中国からの撤退をも要求するという内容のものでした。

●中国からの撤退・・1933年の国際連盟で満州国はみとめられていませんし、満州国が法的には中国からの租借地ですから、当然満州からの撤兵も含まれます。

●日本はそれまでの交渉経過を無視した、このハル・ノートを最後通牒と受け取りました。事実上、これはアメリカの宣戦布告とも言えるものでした。

●日本の外交暗号を完全に解読していたアメリカは、11月末までに日米交渉がまとまらない場合に日本は交渉を打ち切るということを知っていましたから、ハル・ノートによって交渉が決裂し、日時をおかずして戦争になると確信していました。ハル・ノート提出日に、無制限潜水寒作戦を指令し、翌日にはハル国務長官はスティムソン陸軍長官に「今や問題はあなたとノックス海軍長官の手中にある」と伝えました。日本がハル・ノートへの回答する前のことでした。

 

◇東條の涙

●アメリカ駐日大使グルーも「この時、開戦の牡丹は押されたのである」と回顧録で述べています。

●実はそれ以前に日米戦争はほぼ不可避の段階に入っていました。対日禁輸、不日米交渉で。

●日本は11月5日の御前会議で、11月末までに交渉がまとまらなければ12月初旬に対米宣戦布告をすると決定していました。

●真珠湾攻撃命令は12月1日の御前会議の翌日2日に、軌道艦隊への「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号文で発せられました。したがってハル・ノートは開戦ボタンに過ぎず、日本は国家存立を危うくする全面的対日禁輸を見て、自衛のため、何が何でもしたくなかった超大国アメリカとの戦いに、開戦したのです。

●そのそも、天皇陛下が、対米戦に反対でした。9月6日の「帝国国策遂行要領」に天皇が難色。あくまで外交解決を支持。12月1日の御前会議に再提出。

 

◇アメリカの工作は実った

●ハル・ノートは、東京裁判での日本側弁護人ブレイクニーが、米国人歴史館アルバート・ノックの著作から引いて、「こんな最後通牒を出されたらモナコやルクセンブルグでも武器をとって立つ」と言ったほどの高圧的かつ屈辱的なものでした。

●ルーズベルト大統領はヨーロッパへの派兵を強く望んでいました。アメリカ政府内の要所にいたソ連スパイ達が必死に日米交渉を決裂させ、アメリカ参戦に持ち込もうとしていました。

●しかしながら、議会はもちろんアメリカ国民の八割以上は参戦に反対であり、ルーズベルト自身、前年の大統領選挙で「アメリカの若者の血を一滴たりとも海外で流させない」と公約して当選していました。この世論の厭戦気分を一掃し公約を破棄するには、日本に「最初の一発」を撃たせ、国民を憤激のるつぼにおとし入れるしかない。ルーズベルトは着々と手を打った。

●74歳の陸軍長官スティムソンはハル・ノートの出された翌日の日記にこう書いています。「ルーズベルトは次の月曜日にも日本が攻撃してくるかもしれないと言った。問題はどうやったら彼等に最初の一発を撃たせられるか、しかも我々の損害をさほど大きくせずに、ということだった」。

●ハル・ノートを起草したハリー・ホワイト財務次官補は、戦後になって解読されたヴェノナ文書(ソ連の暗号文を米の情報機関が解読したもの)によると明白なソ連のスパイでした。ハリー・ホワイトは終戦の3年後、共産主義者として告発され非米活動委員会に召喚された後、自殺しました。

●ホワイトなどの工作員達は、ソ連の生存はアメリカの参戦に依存し、アメリカ参戦は日本軍の「最初の一発」に依存すると捉え、日米交渉決裂のため必死の工作を行ったのです。ハル・ノートは決裂させるための切り札でした。

 

◇開戦に日本人は何を思ったか

●要するに、日米戦争は、自身、社会主義者に近く、ソ連に親近感をもつルーズベルト大統領が、ソ連そしてイギリスを窮地から救い出すため、権謀術数をつくして日本を追いこみ、戦争の選択肢しかないように仕向けたものでした。

●ほとんどの国民は「すっきり」した。軍部ばかりではなくすべて国民が、在米日本資産の凍結、全面禁輸、ハル・ノートと愚弄され続け、鬱屈していましたから、息苦しさから一気に解放されたような気分になったのです。

●東亜新秩序などという美しいスローガンはあるものの、弱いものいじめに近い日中戦争は、武士道精神のまだ残っていた多くの国民にとって憂鬱な戦いだったのです。それに比べアメリカは、GDPで日本の12倍、鋼材生産は17倍、石油は何と日本尾700倍もある国なのです。祖国の名誉と存亡をかけた戦いに、民族としての潔さを感じ高揚したのです。

 

 

第七章・・大敗北と大殊勲

 

◇マッカーサーも認めた自衛戦争

●東京裁判を開廷し日本を侵略国家だと断罪した当の本人マッカーサーは、1951年の米国上院軍事外交合同委員会で次のように答弁しています。「日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿がない、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域に依存していたのです。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」(『東京裁判 日本の弁明』)。

●すなわち、日本にとって自衛の戦争であった、と証言したのです。これはドイツに、明確な世界制覇の意思と共同謀議があったのと対照的です。

 

◇日本の人種差別撤廃案を斥けたウイルソン大統領

●第一次世界大戦後の1919年に開かれたパリ講和会議でも、十九世紀以来の帝国主義、「文明の神聖なる使命」がまかり通っていました。

●この会議に参加した日本は国際連盟規約に「人種差別撤廃」を入れるように提案しました。提案はイギリスやアメリカの反対にもかかわらず、結果は賛成11体反対5となりました。可決と思われた時、議長のアメリカのウイルソン大統領が「重要な議題について全会一致が必要である」と言いだし、日本案を斥けたのです。それまでの議決は多数決で決定されていました。

●以後日本に、白人国家とりわけアメリカへの不信が高まりました。これは5年後にアメリカが日本からの移民を全面禁止したことで決定的なものとなりました。

●『昭和天皇独白録』に、「(先の大戦の)原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。・・・かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」。

●人種差別を捨てない、ということは少なくともヨーロッパ以外では植民地主義や帝国主義を続ける、という意思表示でもありまます。

 

◇破綻するイデオロギー

●かくして帝国主義は2000万の犠牲者を出した第一次世界大戦の後もしぶとく生き残ったのです。1920年代以降、かろうじて生き残った帝国主義勢力に加え、1922年に初の共産主義国家として誕生し、他国を赤化しようとするソ連、世界制覇を夢見るナチスドイツ、恐慌後の米英仏などによるブロック経済化を見て大東亜共栄圏を目論んだ日本、という新たな膨張勢力が列強として登場しました。

●陣取りゲームともいえる帝国主義。帝国主義のごとき内部矛盾をはらんだイデオロギーは必ずいつか破綻し、大清算される運命にあります。それが第一次世界大戦であり、第二次世界大戦でした。

●同様に矛盾を内包した共産主義は、飢餓や粛清の犠牲者という大実験の後、1990年のベルリンの壁崩壊やソ連の解体とともに大清算されました。やはり矛盾だらけの新自由主義、すなわち貪欲資本主義が、世界を20年ほど跋扈した後、リーマンショック、世界不況、ギリシャ、スペイン、アイルランド、東欧の財政危機、食料や原油の高騰、アフリカや中近東での市民暴動と、未だに大清算が続いています。

 

◇ペリーの衝撃

●世界史の流れに幕末は放り込まれてしましました。1853年ペリー提督が4隻の黒船で浦賀へ来て、江戸幕府に大統領国書を渡しました。

●新しい市場を求めるアメリカは、インドから東南アジア一帯が既に英仏蘭に先んじられたため、最後の大市場、清国に狙いをつけたのです。清への太平洋航路のためにも、薪、水、食料の補給拠点が必要でした。幕府は1年の猶予の後に回答するという確約で帰ってもらいました。

●ペリーの一か月後には、ロシアのプチャーチン提督が軍艦4隻で長崎に来航しました。

●幕府がすぐに軍艦を発注し、各藩に軍艦建造を奨励し、江戸湾警備のため砲撃用のお台場造営に着手しました。様式砲製造の鋳造技術をもつため1853年前後から佐賀藩、伊豆韮山代官所、水戸藩、薩摩藩などで続々と反射炉が作られました。

 

◇横井小楠の卓見

●思想的リーダーにも衝撃が走りました。彼らは1840年から1842年にかけてのアヘン戦争で、大陸中国がどれほど酷い目にあったかよく知っていました。次は日本と身構えました。

●翌1854ペリー再来航。船に乗り込むことを失敗し萩の獄舎に入れられた吉田松陰が『幽因録』を書き、師の佐久間象山に送りました。西からポルトガル、スペイン、イギリス、フランス、東からアメリカ、北からロシアが日本を狙っていること。それに対し武備を増強し、艦船や大砲がそろった時点で北海道を開拓し、琉球、朝鮮、台湾、フィリピン、満州まで進出すべしと主張しています。

●福井藩橋本佐内、福井の松平春嶽、薩摩の島津斉昭なども海防強化を主張。横井小楠の思想は「天皇の下に国家を統一し、人材を広く登用し、議会政治を実現する」というものでした。明治政府が目指したのはまさにこの思想でした。彼は西洋文明の導入と富国強兵を強く唱えましたが、暗殺される3年前に、洋行する二人の甥にこう書いています。

●西洋文明は覇道を目指すが日本は王道をめざすべしということです。日本は欧米のような単なる富国強兵国家ではなく、さらに有徳国家にもなれという高い理想でした。

 

◇独立自尊を守る

●当時ヨーロッパの勢力に蹂躙されていたアジアの中で、日本だけが独立自尊を守ることを決意しました。幕末から明治維新の日本人が、満腔にこの決意を固めたと同時に、その後の流れが決まってしまったのです。

●林房雄氏は『大東亜戦争肯定論』の中で、幕末の1845年から大東亜戦争終結の1945年までを百年戦争としました。私の考えはそれに近く、ペリー来航かの1853年から、大東亜戦争を経て米軍による占領が公式に終わったサンフランシスコ講和条約の発効、すなわち1952年までの約百年を「百年戦争」とします。

 

◇南下政策をとったロシア

●英米仏欄は、アジアの国々とは比較にならないほど成熟した日本の文化や日本人の品格を見て、一様に仰天しました。これらの国は、植民地化は早々と諦めたのです。しかしロシアだけは他の欧米諸国と違い、バルカン半島、中央アジア、中国、極東と、ユーラシア大陸全体であからさまな南下政策をとっていました。不凍港の獲得が大きな目的です。

●1853年オスマン帝国および英仏を相手にクリミア戦争。1860年沿海州、ウラジオストックを獲得、1875年千島樺太交換条約で樺太を獲得、太平洋への進出を可能にしました。1877年露土戦争(ロシア対トルコ)を仕掛け、十九世紀初めから二十世紀初めまで、インド洋に出ることを狙いほぼ一世紀にわたりイギリスとアフガニスタン争奪構想を繰り広げていました。

●欧米勢力の手薄な中国、満州、朝鮮、日本などの極東への意気込みはとりわけおおきなものでした。

 

◇日露戦争の勝利にアジアは歓喜した

●ロシアはその後朝鮮の元山に軍港を作ろうとしたため、イギリスは1885年、極東におけるロシアの南下を牽制する目的で、朝鮮南部沿岸の島、巨文島を占領し兵舎や防衛施設を作りました。ロシアは極東経営に本腰を入れるためにも、モスクワからウラジオストックまで世界一長いシベリア鉄道を建設することにしました。

●その対抗策として独立自尊を守るために日本がとったのは、日中朝で協力し白人の侵略に備えること。これが日本の長期戦略となりました。アジア主義です。富国強兵で日露戦争に進んだのです。

●まず朝鮮を目覚めさせるために日清戦争を戦いました。次いで1904年の日露戦争でイギリスとの日英同盟などにより陸軍国ロシアを撃ち破ることができました。エジプトに至るアジアのすべての国々が歓喜に湧きました。日本とタイ以外はすべて植民地でしたが、アジアに人々に勇気と自信を与えました。

●中国の孫文は「これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった・・全アジア民族は歓喜し大きな希望を抱くことに至った」、インドのネールは「日本の勝利は私を熱狂させた」、トルコ皇帝は「対馬海戦勝利は武士道によってもたらされたものだ」、ニューヨークタイムズは「日本の勝利は文明の凱旋である」などと絶賛しました。

●十五世紀から始まった白人人種の世界征服に、初めて大きな制動がかけられたという点で、世界史の重大事件に入れてよいほどの事件でした。

 

◇福島安正が流した涙のわけ

●ただし光には影があります。日本のアジア主義が、日露戦争の前後から、日本を盟主とするアジア主義、すなわち大アジア主義というものに少しずつ変質して行ったのです。

●自衛という意識の強かった日本が、日露戦争勝利の自信を胸に、帝国主義列強の仲間入りをしたのです。帝国主義とは、言うなれば「弱いものいじめ」です。これはすべての日本人にとって卑怯なことです。また侵略される弱小国民への惻隠を忘れた主義と言えます。卑怯を憎む心と惻隠は武士道精神の中核なのです。

●明治19年、ビルマを視察し、明治25年シベリア単騎横断で旧ポーランドに入った陸軍情報将校の福島安正は、帝国主義の過酷に涙し、その根本的愚かさに慨嘆し、白色人種による有色人種差別に義憤を感じているのです。

 

◇日本の宿痾とは何か

●当時の日本人が福島と同じく感じていたにも関わらず、日本は、独立自尊という気負った決意のため、帝国主義列強に参加したのです。参加か不参加かを考える前に、欧米列強に対し帝国主義や植民地主義そのものが誤りであり、恥ずべきものであることをしっかり説得し説教すべきでした。

●日本が欧米を説教したことは未だにありません。帝国主義、共産主義、新自由主義、最近ではTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)など、常に欧米の決定したドグマに乗るか乗らないかを選択するのみです。日本の価値観を高く掲げ、迫力をもって欧米を説得説教する、ということを決してしようとしないのは、日本の宿痾(しゅくあ)とも言えます。

●この宿痾により、ついに日本は禁断の道へ入って行きました。1915年第一次大戦中の対支21カ条は、そのはっきりした兆候です。アジア主義は日露戦争前後から大アジア主義となり、昭和には大東亜共栄圏となりました。

●列強のブロック経済化、コミュンテルンの謀略による日中戦争、アメリカの謀略による日米戦争。この間コミュンテルンの強力な動きで、日英同盟の放棄、1927年南京事件で英米と共同行動をとらなかったこと、リットン調査団の報告を不服として国際連盟を脱退したこと、1940年日独伊三国同盟を結んだこと、などなど日本外交の拙劣さが悔やまれます。

●帝国主義の大清算により生き延びるには恐らくアメリカと組むことだけでした。しかしアメリカのフロンテア精神が太平洋と中国大陸であり、当時の日本の生命線と競合し、アメリカに有色人種蔑視がありましたから、かなわぬことでした。これはアメリカが日米蜜月だった日露戦争の直後から、列強の仲間入りをして白人による世界支配を崩し始めた、絶対に許せない日本との戦争計画、オレンジ計画を密かに練り続けていたことからも明らかだと思います。

 

◇他の列強と異なった「日本の高貴な決意」

●アジアの小さな島国日本は、帝国主義の荒波の真只中で、ほとんど不可能ともいえる独立自尊を決意しました。これがすべてでした。この独立自尊を守るため、二千年近い歴史の中で、海外出兵は白村江の戦いと朝鮮出兵だけという、また平安時代には350年、江戸時代には250年の完全平和を貫くという離れ技をやってのけた、世界でも際立った平和愛好家は、帝国主義の荒波に乗るしかありませんでした。こうして百年戦争に入って行きました。

●過去の出来事を、現代の視点で批判したり否定したりするのは無意味なことです。

●無謀にもロシアとアメリカに挑んだことは、別の視座から見ると、日本の救いです。あくまで独立自尊にあったということの証左にもなっているからです。

 

◇百年戦争の末の、日本の大敗北と大殊勲

●百年戦争は日本の大敗北となりました。しかしこれは無益無駄な戦争だったでしょうか。

●大局的に見ると、実は百年戦争は日本の大殊勲だったのです。ペリー来航以来、日本が希求してきたものは、第一に独立自尊でした。そして第二には、そのためのアジア主義、すなわち日中朝が連帯して白人によるアジア支配を食い止めることでした。第一については6年半ほどのアメリカの統治を受けただけで、曲りなりにも有史以来の独立自尊を保つことができました、第二についても、日本はほぼ独力で達成してしまいました。アジアの人々は独立を手中にしたのです。1941年には独立国がアジアでは日本、タイ、ネパールの三国、アフリカではエチオピア、リベリア、南ア連邦の三国しかなかったのですが、その11年後、百年戦争の終わる時点では合わせて百カ国を超えたのです。

●それだけではありません。悲願だった人種差別まで全くなくしてしましました。

●歴史家トインビーは、英紙オブザーバーにこう書きました。「日本は第二次大戦において、自国ではなく大東亜共栄圏の他の国々に思わぬ恩恵をもたらした。(中略)それまで200年の長きにわたってアジア・アフリカを統治してきた西洋人は、無敵で神のような存在と信じられてきたが、実際はそうではないことを日本人は全人類の前で証明してしまったのである。それはまさに歴的業績であった」(1956年10月28日付、藤原訳)

●クリストファー・ソーンは別の著書でこう書きました。「日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西洋帝国の終焉を早めた。帝国主義の衰退が容赦なく早められていったことは、当時は(西洋人にとって)苦痛に満ちた衝撃的なものだったが、結局はヨーロッパ各国にとって利益だと考えられるようになった」(『太平洋戦争とは何だったのか』市川洋一訳、草思社)

●日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義さらには人種差別というものに終止符を打つという、スペクタキュラーな偉業をなしとげたのです。結果的には世界史の大きな転機をもたらしたという点で、何百年に一度の世界史的快挙をやってのけたと言えるでしょう。

 

 

第八章・・日本をとり戻すために

 

◇日本文明の価値観とは

●歴史の断絶とは故郷の喪失のようなもので、祖国へのアイデンティティー喪失につながるのです。(占領軍と日教組の都合で否定されてきた)

●日本文明を特徴づける価値観とは、一つは、欧米人が自由とか個人をもっとも大事なものと考えるのに対し、日本人は秩序とか和の精神を上位におくことです。したがって個人がいつも競い合い、激しく自己主張し、少しでも多くの金を得ようとする欧米人や中国人のような生き方は美しくない生き方であり、そんな社会より、人々が徳を求めつつ穏やかな心で生きる平等な社会の方が美しいと考えてきました。

●独自の美観、価値観はかろうじてながらまだ生きています。

 

◇日本が追求した平和な社会

●帝国主義とは日本人の発想から生まれようもないもので、欧米のものでした。

●金銭的豊かさを追求、他人より自分、自己主張する欧米人は、国際秩序とか平和より自国を尊重し、自国の富だけを求めて自由に競争するという考えになびきやすい。新自由主義は、貪欲資本主義と言えるものでこれもまた欧米のものです。

●日本人が平等を好むのは、自分一人だけがいかに裕福になろうと、周囲の皆が貧しかったら決して幸せを感じることができないからです。人々の心の底流には仏教の慈悲、武士道精神の惻隠などが息づいているのです。

●日本は、帝国主義、共産主義、そして新自由主義と、民族の特性に全くなじまないイデオロギーに、明治の開国以来、翻弄され続けてきたと言えます。

 

◇日本を日本たらしめる価値観とは

●今こそ、日本人は祖国への誇りを取り戻し、祖国の育んできた輝かしい価値観を再認識する必要があります。

●「日本人は聖徳太子以来、和を旨とする国柄です。実際、戦後の奇跡的経済復興も、官と民の和、民と民の和、経営者と従業員の和でなしとげました」

●迫力をもって欧米を叱咤説教しようとしない日本の宿痾により、アメリカ式を無批判にとり入れたから、日本特有の雇用が壊され、フリーターは400万人を超え、完全失業者は300万人を上回ることとなったのです。

●占領軍の作った憲法や教育基本法で、個人の尊厳や個性の尊重ばかりを謳ったから、家とか公を大事にした国柄が傷ついてしましました。GHQの意図したことでした。日本の弱体化。天皇を元首に、長子相続の廃止など「家」を破壊し個人ばかりを強調したのです。

 

◇「個の尊重」より国柄を

●実はこの紐帯こそが、幕末から明治維新にかけて日本人を観察した欧米人が驚いた、稀有の現象の正体だったのです。

●日本に昔からある「長幼の序」や「孝」を幼いうちから教え込まないとどうにもなりません。

●戦前から始まり、戦後には急坂を転がるように進んだ体質の劣化が原因だからです。

●GHQなどによる日本弱体化計画が偉大なる成功を収めたのです。

 

◇論理や合理だけでは人間社会は動かない

●頽廃しているのは日本ばかりではありません。産業革命以来、世界は欧米の主導下にありました。それは、論理と合理と理性を唯一の原理として進む文明でした。帝国主義も共産主義も、その原理から生まれたモンスターでした。どれも理路整然とした論理があります。二十一世紀になってから世界中で一斉に噴出し始めた困難は、この原理の行き詰まりを意味します。

●論理、合理、理性だけで人間社会を仕切るのは不可能ということが露呈したのです。帝国主義、共産主義で犠牲を払い、現在は新自由主義の破綻で苦しんでいます。

 

◇「誇り」を回復するために何が必要か

●WGIP(罪意識扶植計画)で植えつけられた罪悪感を払拭することです。戦勝国の復讐にすぎない東京裁判の断固たる否定でなければなりません。そして日本の百年戦争がもたらした、世界史に残る大殊勲をしっかり胸に刻むことです。

●その上で第二は、アメリカに押しつけられた、日本弱体化の憲法を廃棄し、新たに、日本人の、日本人による日本人のための憲法を作る上げることです。現憲法では独立国ではなくなっている。

●次いで第三は、自らの国を自らで守ると決意して実行することです。他国に守ってもらうは属国の定義。軍事力を持った上で、アメリカとたいとうで強力な同盟を結ばねばなりません。

●この三つがなされ、日本の真髄と言える美意識と独立自尊がとり戻されて初めて、ペリー来航以来の百年戦争が真の終結を見るのです。

 

◇苦境を克服してこそ高みに達する

●日本人の築いた文明は、実は日本人にとってもっとも適しているだけではありません。個より公、金より徳、競争より和、主張するより察する、惻隠や「もののあわれ」などを美しいと感ずる我が文明は、「貧しくともみな幸せそう」という古今未曽有の社会を作った文明なのです。

●日本人特有のこの美観は普遍的価値として今後必ずや論理、合理、理性を補完し、混迷の世界を救うものになるでしょう。日本人は誇りと自信をもって、これをとり戻すことです。そして世界に発信し訴えていくことです。

●スマイルズは前述の書で次のように言っています。「歴史を振り返ると、国家が苦境に立たされた時代こそ、もっとも実りある時代だった。それを乗り越えて初めて、国家はさらなる高みに到達するからです」(藤原訳)現代の日本はまさにその苦境に立たされています。日本人の覚醒と奮起に期待したいものです。

 

 

 

■ APが報じたソ連の蛮行

 

 

産経新聞オピニオン一筆多論に、終戦後侵攻したソ連の国際法違反の記事は載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

終戦後のソ連侵攻、一歩間違えば北海道は分断していたということですね。

2022/08/16

 

APが報じたソ連の蛮行

2022/08/16 オピニオン 一筆多論 論説委員岡部伸

 

 

 

APが報じたソ連の蛮行

 

「連合国軍が占守島に侵攻している」

千島列島最北端の占守島にソ連が侵攻してから18日で77年となる。「終戦」後のことだ。だが、このソ連の蛮行を米AP通信がいち早く報じたことはぁまり知られていない。

 

「わが軍(日本軍)は自衛のために武器に頼らざるを得ない。両者間の敵対行為が禁止された以上、早急に敵対行為を停止することが切に望まれる」という、日本の主張をそのままAPが世界に伝えたのである。

 

昭和天皇のご聖断で、日本がボツダム宣言受諾を決め、8月15日に終戦の詔書が出された3日後だ。ソ連が「北海道の占領」を目指して奇襲上陸を始めた。

 

大本営は16日、即時停戦命令を下す一方で、 自衛戦闘も「18日午後4時まで」と命じていた。しかし、侵攻するソ連軍に対し、「断乎反撃」を命じ、撃退したのが第5方面軍司令官、樋口季一郎中将だった。

 

樋口中将は、独自の判断で自衛戦闘を指示すると同時に18日、大本営に「停戦公表後に侵略するソ連軍は不都合で、関係機関と折衝を」と米軍に抗議するよう緊急電で要請した。不都合とは、国際法違反という意味であろう。

 

大本営は直ちにマニラのマッカーサー司令部に占守島を侵略するソ連に停戦を求めるよう電報を打った。マッカーサーは戦闘中止を求めたが、ソ連は無視した。そこでAPがマニラ発で伝えた。侵攻日を18日と記しており、日付は20日か、21日とみられる。

 

APは、「通報では、上陸した連合国軍の国籍は不明」としたが、状況からソ連の犯行であることは明らかだ。敗戦国が戦勝国の米国といち早く連携し、武装解除で丸腰となった日本を侵略するソ連の蛮行を国際社会に訴えた意味は小さくない。国際法を守らず、力による現状変更を狙う侵略国家ソ連の本性を速やかに発信したのは、プロパガンダにたけたソ連に情報戦で一泡吹かせたといえる。

 

北千島、南樺太で日本軍が激しく抵抗した結果、ソ連軍は22日、北海道占領を断念する。第5方面軍の抵抗と情報発信がなければソ連軍は北海道になだれ込んでいただろう。

 

樋口中将が「反ソ」で米軍と連携したことについて、孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授は「対露情報将校だった祖父は、ソ連軍が千島、樺太から北海道まで侵攻することを察知していた。そこで米軍と共闘し、立ち向かう対策を考えていた」と指摘する。

 

手記によると、(ソ連参戦)数力月前、参謀本部第2部ロシア班参謀が札幌の第5方面軍を訪れ、数力月後にソ連が対日開戦すると告げたという。ストックホルムから参謀本部に届いたとされる小野寺信武官のヤルタ密約も伝わっていたかもしれない。終戦1カ月前の7月、阿南惟幾陸相も同所を訪問している。

 

隆一氏によると、8月17日、札幌郊外の千歳空港に米軍のB29が飛来したが、樋口中将は驚かず、知っていた様子だった。ソ連の北海道侵攻への米軍の警告と解釈できる。樋口中将が大本営を通じ、米軍と連携していた可能性もある。

 

ウクライナで侵略戦争を続けるロシアは今も北海道侵攻の野望を隠さない。

 

ソ連の侵略を撃退し「分断国家の悲劇」から救った樋口中将のインテリジェンス(諜報)と決断のひそみに倣いたい。(論説委員岡部伸)

 

 

 

 

■ 「敗戦の日」に思う

 

 

産経新聞ライフに、裏千家前家元・千玄室氏の「敗戦の日に思う」が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

戦中に生きた人の敗戦の日に思う・・なかなか重い言葉だと思います。

2022/08/15

 

「敗戦の日」に思う 裏千家前家元・千玄室

2022/8/15 08:00千 玄室 ライフ 終戦の日

 

裏千家前家元・千玄室氏
裏千家前家元・千玄室氏

 

千 玄室(せん げんしつ、1923年(大正12年)4月19日 - )は、茶道裏千家前家元15代汎叟宗室。斎号は鵬雲斎。若宗匠時代は宗興。現在は大宗匠・千玄室と称する。「玄室」の名は、千家4代目の仙叟宗室が宗室襲名前に玄室と名乗っており、これに因んで12代直叟宗室が隠居した際に玄室を名乗ったことに由来する[要出典]。本名は千政興。京都大学大学院特任教授・大阪大学大学院客員教授として、伝統芸術研究領域における指導に当たるほか、外務省参与(2019年3月31日まで)、ユネスコ親善大使、日本・国連親善大使、日本国際連合協会会長、日本オリンピック委員会名誉委員、日本会議代表委員、日本馬術連盟会長、京都サンガF.C.取締役などを務めている。

 

「終戦の日」を前に、靖国神社には多くの参拝者が訪れた=14日午後、東京都千代田区(川口良介撮影) 
「終戦の日」を前に、靖国神社には多くの参拝者が訪れた=14日午後、東京都千代田区(川口良介撮影) 

 

 

「敗戦の日」に思う 裏千家前家元・千玄室

 

77回目の「終戦の日」がめぐってきた。私にとっては、忸怩(じくじ)たる思いで迎えた敗戦の日である。毎年この日が来るたびに私はあの忌まわしく悲惨な第二次大戦は一体何のためだったのかと、過ぎ去りし日を省みる。3年続けて新型コロナウイルス感染症が収束しない中で迎える今年も、それは変わらない。

 

あの大戦で日本のほとんどの都市は無差別爆撃で廃墟(はいきょ)も同然となり、最後には広島、長崎に原子爆弾まで投下され、多くの国民が犠牲になった。しかし、戦後の復興と繁栄が日本人の底力故に見事に成し遂げられたためか、今の人は歴史の中の古い昔話のように感じておられるようだ。昭和天皇直々に、戦いを終える意向を示された玉音放送をラジオで直接耳にされた方も多くはもういらっしゃらない。米国の庇護(ひご)の下に置かれた戦後日本において大方の国民は、日本は平和な国になったと、満足して毎日を送っている。

 

それでも、敗戦はその時を生きた方々には忘れられない現実である。敗戦国日本は米国に占領され、米国主導で憲法までできた。しかも、それが今も変わらずに残る。そんな国はわが国だけではないだろうか。

 

軍隊の不保持を定めた「憲法第九条」の問題は常に俎上(そじょう)に載せられるのに変えることもできないばかりか、軍隊、軍事力とは一線を画す自衛隊すら認めず一発の弾を撃つことも許さないという考えが今も消えない。これで本当にいざというとき、自力で国民を守れるのだろうか。

 

戦争中、軍隊にいた私は終戦間際に上官に呼び出され、「南方方面に残留する将官たちを速やかに大型機で連れ帰れ」という機密命令を受けた。77年の昔のことだから、やや記憶に曖昧なところもあるが、8月15日には兵庫県内の陸軍航空隊基地へ行った。ところが終戦で、混乱に紛れて何か有耶無耶(うやむや)になったようで、3日ほど滞在している間に命令は取り消され、私はなす術(すべ)なく復員となった。今考えてみると、もし南方方面に出発していたら、いずれかの海で米軍のグラマン戦闘機に撃ち落とされていたかもしれない。

 

密命で動いていた私は、行動を誰にも告げることができなかったから、周囲では私がどこかに消えたということになっていた。家に帰り着いた時、家族全員が驚き喜んでくれたことは今日も、記憶に刻まれている。

 

あの時、負け犬の如(ごと)く家に戻った私はただただ忸怩たる思いでいっぱいであったが、しかし、その気持ちは今なお、ある意味で私の支えとなっている。今の人々は日本は安全だとばかり思っているようだが、如何(いかが)なものかと前途を心配せずにはいられない。戦うことを放棄し、平和を守るための軍事力さえ持たぬという「第九条」がこのままである限り、日本は独立国家といえるであろうかと。

 

何も戦いを奨(すす)めているのではない。千利休は一碗(わん)のお茶をもって、権力者たちが和やかで穏やかな国造りをできるように、命をかけ努めた。茶道の精神ほど、世界人類の平和と安穏に尽くせるものはないと今更に思うのである。(せん げんしつ)

 

 

 

■ この夏に思う 終戦詔書の叡慮に応へた安倍氏

 

 

産経新聞正論コラムに、小堀桂一郎氏の「この夏に思う 終戦詔書の叡慮に応へた安倍氏」が目を惹きましたので書き起こして掲載します。

 

1951年のマッカーサーの米国上院の軍事外交合同委員会での重要な証言は、なぜか日本ではほとんど報道しないし教育でも取り上げられないのだろうか?

2022/08/13

 

この夏に思う 終戦詔書の叡慮に応へた安倍氏 東京大学名誉教授・小堀桂一郎

2022/8/12 08:00 小堀 桂一郎 コラム正論

 

東京大学名誉教授、小堀桂一郎氏 
東京大学名誉教授、小堀桂一郎氏 

 

小堀 桂一郎(こぼり けいいちろう、1933年生まれ)は、日本の文学者。東京大学名誉教授、明星大学名誉教授。専攻はドイツ文学、比較文学、比較文化、日本思想史。

 

 

戦後77年を経て自問する

 

昭和20年8月14日付で昭和天皇の「終戦の詔書」を奉戴(ほうたい)した事により辛うじて大東亜戦争の停戦を成就し得てから本年で77年を経た。

 

この日が近づくと自然に思ひ浮ぶのは、昭和天皇が降伏の決断を下された事に国民の理解を求めるべく、言々句々血を吐く如き悲痛なみことのりを朗読されたあの玉音放送である。承詔必謹の覚悟の下に拝聴した詔書の結びの節をなす<…総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ遅レサランコトヲ期スヘシ>のお訓(さと)しに対し、我々は胸を張つてお答へできるだらうか、と自問してみる事から戦後史の再検証は始まる。

 

あの詔勅の核心をなす叡慮(えいりょ)に背く事の多い、恥づべき歴史を国民は辿(たど)つて来たのではないか、と慙愧(ざんき)の思ひばかり先立つ一方で、ふと思ひ返すと去る7月8日に何とも次元の低い私怨から発せられた凶弾を受け、不条理極まる死を遂げられた安倍晋三元首相の存在が俄(にわ)かに思念の裡(うち)に甦(よみがえ)つて来た。

 

安倍氏は疑ひもなく戦後の我が国に現れた政治家の中で最大の器量と志を有する人だつた。詔書に謂(い)ふ「世界の進運」に大きく寄与する事を通じて国体の精華を発揚する偉業を成し遂げた人である。

 

氏にはまだ自主憲法の制定、皇位継承の制度的安定化といふ必須の大事業が未完のままに残されてをり、この二つを成就するための再登場が期待されてゐたのであるから、その早過ぎた逝去は如何(いか)に惜しんでも惜しみ足りない我が国の運命に関はる悲劇である。

 

日本が五大列強中の一国として世界史の運営に参劃(さんかく)し始めた大正・昭和前期にかけての我が国の地位に勝るとも劣らぬ世界政治への発言権を行使した戦後初の宰相が安倍氏だつた。その点で言へば立派に<日本を取り戻す>事業に成功した人である。筆者が特に注目する、氏の世界史的業績は以下の脈絡に繫がるものである。

 

 

米国の「親中侮日」の誤り

 

連合国軍最高司令官の地位を解任されて帰国したD・マッカーサーは昭和26年5月、米国上院の軍事外交合同委員会の席上、日本が日米戦争に飛び込んだのは已(や)むを得ざる自衛の必要からであつた事を証言し、日本国民から熱い注目を集めた。その同じ文脈で同氏は更に重要な発言をしてゐる。曰く<過去百年間に米国が太平洋で犯した最大の政治的失策は、共産主義者達がシナに於(お)いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまつた事である>との懺悔(ざんげ)にも似た悲痛な告白がそれである。

 

この真率なる<アメリカ誤てり>の反省にも拘(かかわ)らず、その後の半世紀余に亙(わた)る合衆国政府の対アジア政策は、性懲りもなく親中侮日の誤りを犯し続けた。

 

マッカーサーの痛切な反省を生かさうとするならば、中国共産党政権に対する姿勢はG・ケナンの対ソ連政策の大原則を踏襲して「封じ込め」に徹すべきであつた。それなのに然(しか)し米国は、中国の自由主義化は経済成長を基盤としていつかは成就するであらうとはかない希望に縋(すが)り、ケナンの原則とは逆の「関与」政策を以て中国共産党政権を甘やかして来た。

 

昭和47年にニクソン大統領(共和党)の突然の訪中と毛沢東・林彪体制の中共との首脳会談、昭和54年にカーター大統領(民主党)と華国鋒主席との間での米中国交樹立、平成10年にクリントン大統領(民主党)訪中による江沢民主席との米中共同声明とそれに続く対中最恵国待遇の恒久化法案可決等々の米中親密化の誇示がその失策の実例である。

 

日本はこの間歴代の首相が皆、米国に後れを取るなとばかりに中共政府の歓心を買ふ事に汲々(きゅうきゅう)としてきた。殊に平成4年には宮沢喜一内閣が、我が天皇・皇后(現上皇・上皇后)両陛下に御訪中を強ひ奉るといふ不敬まで敢(あ)へてした。

 

 

「世界の進運」への寄与

 

然し平成29年に発足したトランプ大統領の新政権は、米国第一主義を掲げるといふ形で漸(ようや)く従来の対中寛容政策からの転換を明言した。大統領は見るからに傲岸不遜の風貌で印象は甚だ悪かつたが、安倍首相はこの人と全く対等に且(か)つ親密に渉(わた)り合ふ力量を有し、米国の国家戦略についての立派な助言者として信頼を勝ち得てゐた様だった。米国の大統領に国政の指針を与へ得る日本の宰相の登場は戦後史の奇蹟(きせき)と言つてよい。

 

遂に令和2年にはポンペオ国務長官が公式演説に於いてニクソン訪中以来50年に亙る米国の対中寛容政策の誤りを認めるに至った。マッカーサー証言の記憶を持つ我々としては、今頃、そこに気がついたのかと言ひたい所である。

 

ここで面目を発揮するのが安倍氏の提唱した「自由で開かれたインド太平洋」圏の構想と、その実践としての日米豪印の戦略上の提携政策である。これは事実上百五十年に亙る米国の親中政策の誤りを修正させ、彼国の外交を正道に立ち戻らせた、「世界の進運」への立派な寄与と称すべきである。(こぼり けいいちろう)

 

 

20カ国・地域(G20)首脳会談冒頭で笑顔を見せる(左から)トランプ米大統領、安倍晋三首相(いずれも当時)、インドのモディ首相=2019年6月、大阪市住之江区(代表撮影) 
20カ国・地域(G20)首脳会談冒頭で笑顔を見せる(左から)トランプ米大統領、安倍晋三首相(いずれも当時)、インドのモディ首相=2019年6月、大阪市住之江区(代表撮影) 

 

 

 

■ 侵略されたのはウクライナだけか

 

産経新聞the考に、潮匡人氏の「侵略されたのはウクライナだけか」が寄稿されていましたので、書き起こして掲載します。

 

本当に日本は当事者意識がないですね。政治家の劣化が予想以上に著しい。

2022/08/08

 

The 考 潮匡人氏寄稿

2022/08/07 

侵略されたのはウクライナだけか

 

軍事ジャーナリスト 潮匡人氏 
軍事ジャーナリスト 潮匡人氏 

 

潮 匡人(うしお まさと、1960年生まれ)は、日本の評論家、軍事ジャーナリスト、航空自衛官。早稲田大法学部卒業。旧防衛庁・航空自衛隊入隊後、早大大学院法学研究科博士前期課程修了。長官官房などを経て、3等空佐で退官。帝京大准教授、拓殖大客員教授など歴任。防衛庁広報誌「日本の風」(通巻6号で休刊)編集長。著書多数。来月には:『ウクライナの教訓 反戦平和主義が日本を滅ぼす』(育鵬社)の発刊を予定。

 

 

当事者意識なき日本

 

去る7月22日の閣議で報告、了承された最新版の『防衛自書』(防衛省刊行)は、「ロシアによるウクライナ侵略」と題した新たな章を設け、13ページにわたって、関連情勢を解説した。そのなかで、「ウクライナの主権及び領土の一体性を侵害し、武力の行使を禁ずる国際法と国連憲章の深刻な違反」と断罪し、こう述べた。

 

「多数の無辜の民間人の殺害は重大な国際人道法違反、戦争犯罪であり断じて許されない」「このようなロシアの侵路を容認すれば、アジアを含む他の地域においても一方的な現状変更が認められるとの誤った含意を与えかねず、わが国を含む国際社会として、決して許すべきではない」

 

そのとおりだが、問題は具体的に、どう対応するか、である。『防衛自書』は「許されない」「決して許すべきではない」と書くが、「決して許さない」とは書かない。「されない」という受動形の表現や、文字どおりの「べき論」に終始している。よく言えば客観的な表現だが、それは政府として「許さない」という意思表示ではない。要するに他人事ではないか。将来の日露関係を見込んだ外交的な配慮かもしれないが、これでは、ロシアの行動を修正させる効果は期待できない。米国をはじめとする欧米諸国はロシアに対する武力行使は行わなくとも、ウクライナに武器を供与し、侵略を「許さない」という意志を具体的行動で示しているが、日本はどうか。『防衛自書』はこう続けた。 

      

「国際社会は、このようなロシアによる侵略に対して結束して対応しており、各種の制裁措置などに取り組むとともに、ロシア軍の侵略を防ぎ、排除するためのウクライナによる努力を支援するため、防衛装備品等の供与を続けている。ウクライナ侵略にかかる今後の展開については、引き続き予断を許さない状況にあるが、わが国としては、重大な懸念を持って関連動向を注視していく必要がある

 

なるほど、日本も「各種の制裁措置などに取り組むとともに、(中略)防衛装・備品等の供与を続けている」が、欧米諸国と比べ、質も量も格段に劣る。供与しているのは、防弾チョッキなどであり、武器ではない。憲法解釈上も、武器供与は難しいという事情はわかるが、誰も解釈を修正しようとしない。

 

過日、米国のケビン・メア元国務省日本部長が、「日本は地対艦ミサイルをウクライナに供与せよ」と「直言」したが(国家基本問題研究所ホームページ「今週の直言「2022年6月20日)、残念なことに、日本政府はもちろん、日本のマスメディァからも、そうした声は上がつてこない。これでは傍観者ではないか。

 

 

北方領土を奪われたのに

 

いや、今さら当事者意識の欠如を嘆くまでもない。ウクライナ以前に、日本の「主権及び領上の一体性」も、77年の長きにわたり、侵害されてきた。

 

振り返れば、日本はロシアより早く、いわゆる「北方四島」(択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島)の存在を知り、これらの島々を統治してきた。

 

1855年2月7日に、日本とロシアとの間で「日魯通好条約」(下田条約)が調印され、択捉島とウルップ島の間に国境が確認される以前も以降も、「四島」は一度たりとて他国の領土となったことがない(つまり日本固有の領土である)。

 

ところが1945年8月9日、旧ソ連(現在のロシア)が、日ソ中立条約を踏みにじり対日参戦。日本がホツダム宣言を受諾した後も攻撃を続け、同年8月18日には(当時日本領の)千島列島に侵攻、その後28日から9月5日までの間に「四島」をすべて不法占領した。

 

当時、「四島」にソ連人は一人もなく、約1万7千人もの日本人が住んでいたが、ソ連は翌年、一方的に自国領に「編入」し、1948年までにすべての日本人を強制退去させた

 

それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いている。このため日露間では、戦後77年を迎える本年、いまだに平和条約が締結されていない。

 

外務省のホームページに、「政府は、北方四島の帰属の問題を解決してロシアとの間で平和条約を締結するという基本方針に基づき、ロシアとの間で強い意思をもつて交渉を行っています」と書かれて久しいが、ロシアによるウクライデ侵略を受け、北方領土返還の見通しは絶望的となった。

 

「重大な懸念を持ってウクライナ関連動向を注視していく」前に、以上の歴史的経緯を直視すべきではないだろうか。

 

 

露を牽制する日米演習を

 

そのうえで今のロシア間題に具体的に、どう対処するか。私は、わが国とロシアの間にあるオホーツク海において自衛隊と米軍が日米共同演習を実施し、ロシアを牽制することを提唱している。ロシアは、この海域に近接する東部軍管区からも大量の兵力を動員し、ウクライナに投入した。私が提案する具体策の軍事的な効果は大きいはずである。

 

なぜ、オホーツク海なのか。

 

それはオホーツク海が、カムチャツカ半島に配備されたロシアの弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)のパトロートル海域であり、北極海と並んでロシアの対米核抑止力を担う“聖域”とされているからだ。

 

オホーツク海および北西太平洋へのソ連SSBNの配備が、ソ連の内部防衛圏を拡大させて日本をこの圏内に入れ、日本に対する潜在的脅威を生み出した」(岡崎久彦・西村繁樹・佐藤誠二郎『日米同盟と日本の戦路』91年、PHP研究所)。

 

以上の安全保障環境は、ソ連がロシアとなつた今も変わらず続く。ロシアはオホーツク海の核要塞化により、対米核抑止力を確保できたから、東部軍管区から兵力をウクライナに投入できたとも言えよう。

 

そう考えると、オホーツク海で日米共同演習を実施できれば、その軍事的な効果は限りなく大きい。ロシアにとっては、自国の“聖域”を侵された、という脅威認識につながる。ウクライナ戦線に東部軍管区の戦力を投入している場合ではない、ということになろう。またオホーツク海の大半は、航行の自由や上空飛行の自由が認められる国際法上の公海であり、すべての国に開放されている。武力行使にも当たらず、国際法上、何の問題もない。また、武器供与と違い、法律上の制約もない。自衛隊にできる最大限の効果的な行動である。

 

だが、そうした声はどこからも聞こえない。しかも前出『防衛自書』も、ロシアによるウクライナ侵略を受け、こう書いた。

 

「わが国周辺においては、戦略核戦力の一翼を担うロシア軍の戦略原子力潜水艦の活動海域であるオホ―ツク海周辺地域、すなわち、北方領土や千島列島周辺におけるロシア軍の活動のさらなる活発化をもたらす可能性がある

 

残念ながら事実、ロシア軍の活動は活発化してきた・・にもかかわらず、自衛隊は何もしないのか。せめてオホーツク海での演習ぐらい、実施できないのか。「ロシアは力を信奉する国である」(乾一宇『力の信奉者ロシアその思想と戦略』JCA出版)。ウクライナでも、北方領土でも、力だけがロシアを動かす

 

 

 

■ 日中戦争は“日本と中国”の戦いではなかった

 

 

中国大陸でのインテリジェンスの戦いと軍事的支援と題して、江崎道郎氏がFBに紹介していましたので、書き起こして掲載します。

 

日中戦争の本質は、中国大陸の権益を巡るドイツ・ソ連・イギリス・フランス、そしてアメリカの争いで、結果的には中国をソ連と中国共産党に取られ、アメリカ外交の大黒星ということですね。

2022/07/25

 

ガジェット通信GetNewsから

アメリカの近現代史観では日中戦争は“日本と中国”の戦いではなかった

2022/07/23 07:00createWANI BOOKS NewsCrunch

 

 

山内智恵子(やまのうち・ちえこ)は日米近現代史研究者。1957年(昭和32年)東京生まれ。国際基督教大学卒業。津田塾大学博士後期課程満期退学。日本IBM株式会社東京基礎研究所を経て現在英語講師。2013~2017年まで憲政史家倉山満氏、2016年から評論家江崎道朗氏のアシスタント兼リサーチャー(調査担当者)を務める。近年は、アメリカのインテリジェンス・ヒストリー(情報史学)や日米の近現代史に関して研究し、各国の専門書の一部を邦訳する作業に従事している。著書に『ミトロヒン文書 KGB(ソ連)・工作の近現代史』(監修:江崎道朗 ワニブックス)がある。

 

 

中国の台湾侵攻を皮切りに、東アジア圏の平和が脅かされる未来、台湾有事が現実味を帯びてきている。

もはや中国を一国の力で止めることは限りなく不可能に近いが、かつての日本と中国の戦いは、どのようにして展開された戦争だったのだろうか。アメリカのインテリジェンス・ヒストリー(情報史学)に詳しい山内智恵子氏が、ユ教授の『龍の戦争』から、日中戦争の本質を見抜きます。

 

 

中国大陸でのインテリジェンスの戦いと軍事的支援

 

戦前・戦時中の中国大陸での戦争を描いた、軍事史及び現代中国の専門家であるマイルズ・マオチュン・ユの『龍の戦争』は、非常にユニークな本です。

第一に、中国大陸での戦争について扱っているのに、日本と中国との戦争については、ほとんど出てきません。出てくるのはせいぜい、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに日中戦争が始まったこと、日本のハワイ・マレー沖攻撃で日本の対英米戦争が始まったこと、1945年8月に日本が降伏したこと、あとは、一号作戦がほんの少し言及される程度です。

従って、第二に、日本のことがほとんど出てきません。日中戦争の各局面で、蔣介石が率いる中国国民党政権が、日本とどのように戦ったのかという話がすっぽり抜けているので、日本軍や日本政府の出番がないのです。日中戦争には当然、膨大な数の日本人が関わっていますが、この本に出てくる日本人の名前は、陸軍軍人の藤原岩市と共産主義者の野坂参三だけです。

 

では、この本で描かれているのは何か。

蔣介石が率いる中国国民党政権と、彼らを支援するドイツ・ソ連・イギリス・フランス・アメリカの熾烈な駆け引きです。ユ教授は、戦前の中国大陸での戦争を、日本と中国との戦争ではなく、中国大陸の権益を巡るドイツ・ソ連・イギリス・フランス、そしてアメリカの争いだと見ているわけです。

 

よって、この本は、蔣介石が国民党の中で台頭していく1920年代後半から、アメリカが中国大陸から手を引く1947年までの、諸外国(独ソ英仏米)の対中支援と中国側の対応を通史として描きつつ、なぜ蔣介石が最終的に中国共産党に負けたのかを分析しています。

そして、ユ教授は特に、各国の政府・情報機関の思惑や、外国情報機関と蔣介石政権が行った情報作戦に着目しています。中国大陸での勝利を左右したのは、日本軍と中国軍の兵力差というよりも、諸外国の「武器を使わない」インテリジェンスの戦いと、それに伴う経済的・軍事的支援だと考えているのです

 

 

 

▲『インテリジェンスで読む日中戦争』より

 

蒋介石を支援しきれなかったアメリカの失敗

 

1937年7月に始まった日中戦争で、蔣介石が率いる国民党政権は、軍事的にも近代的インフラでも、圧倒的に優位な日本と戦わざるを得ませんでした。中国国内に軍事産業がなかったので、抗日戦を続けるには外国からの軍事援助がどうしても必要でした。ユ教授によれば、日中戦争は日本と中国だけの地域戦争ではありません。

 

事実上、欧米列強のすべてが、なんらかの形で日中戦争と関わるようになり、中国の内部で軍事・情報作戦に手を染めていたのです。

 

『龍の戦争』に登場する各国政府・情報機関は実にしたたかです。ドイツは別として、ソ英米仏と蔣介石の国民党政府は、第二次世界大戦の連合国として味方同士ですが、各国には当然、それぞれの国益があります。同じ国でも、省庁や機関それぞれの利害があり、一枚岩ではありませんでした。

 

ユ教授は、蔣介石が各国の政府や情報機関に上手に対処できなかったことが、日本敗戦後の国共内戦で中国共産党に敗北した原因だったとしています。

 

蒋介石 出典:ウィキメディア・コモンズ 
蒋介石 出典:ウィキメディア・コモンズ 

 

 

蔣介石がなぜ負けたかを分析することは、同時に、アメリカの対「蔣介石」支援が、どう失敗したのかを明らかにすることでもあります。

 

1920年代から第二次世界大戦が終わるまでのあいだに、中国を支援した独ソ英仏米5カ国の中で、蔣介石政権支援を国策としていたのは唯一アメリカだけでした。アメリカ政府は、対中ローン供与を始めた1938年末から、最終的に中国から手を引いた1947年までの足掛け9年ものあいだ、国民党の蔣介石を支援しました。

 

ところがアメリカは、中国大陸での権益を求めて日本と対立し、戦争で日本に勝つことはできたものの、中国大陸を手に入れたのは中国共産党だったのですから、結果的にはアメリカ外交の大黒星です。

 

この敗北を、アメリカ政治史では「中国の喪失」(loss of China)と呼びます。

 

ユ教授の本は、蔣介石の敗北を描きつつ、なぜアメリカが日本との戦争に勝ちながら、結果的に中国をソ連と中国共産党に取られたのか、その原因を分析しています。

 

『龍の戦争』から読み取れるアメリカの失敗の根本は、結果的に「蔣介石をろくに支援せず、中国共産党を太らせた」ことです。

 

揚子江に展開するアメリカ第7艦隊の軽巡洋艦ナッシュビル 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン) 
揚子江に展開するアメリカ第7艦隊の軽巡洋艦ナッシュビル 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン) 

 

 

※本記事は、山内智恵子:著/江崎道朗:監修『インテリジェンスで読む日中戦争 – The Second Sino-Japanese War from the Perspective of Intelligence -』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

 

 

 

■ 追悼・安倍氏、生まれながらの戦略家

 

 

産経新聞の 『世界を解くE・ルトワック』に、「追悼・安倍氏 生まれながらの戦略家」が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

安倍氏の外交・安保分野での功績は、最大の遺産ということですね。さて誰が引き継ぐのか?

2022/07/16

 

世界を解くE・ルトワック

追悼・安倍氏 生まれながらの戦略家 日本外交の「革命」後戻りせず

2022/7/14 16:29黒瀬 悦成 国際

 

エドワード・ルトワック氏 
エドワード・ルトワック氏 

 

エドワード・ルトワック(Edward Nicolae Luttwak、1942年11月4日)は、アメリカ合衆国の国際政治学者。専門は、大戦略、軍事史、国際関係論。ルーマニアのユダヤ人の家庭に生まれ、イタリア、イギリスで育つ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学び、英国軍、フランス軍、イスラエル軍に所属した後、1975年にジョンズ・ホプキンス大学で国際関係論の博士号取得。現在、戦略国際問題研究所シニアアドバイザー。

 

 

日本の安保 根本から変えた

 

亡くなった安倍晋三元首相とは、安倍氏が第2次政権で2014年に国家安全保障局(NSS)を設立するに際し、数年間にわたり一緒に仕事をする機会があった。そのことを名誉に思う。安倍氏の死去は日本にとって大いなる損失だ。

 

安倍氏は軽妙なユーモアの持ち主である一方、岸信介元首相の孫、そして首相の座を目指した安倍晋太郎元外相の二男として、自らが尽くすべき本分が何であるかを理解していた。

 

私は安倍氏の「指南役」と呼ばれることも多いが、実際のところはそうではない。私は安倍氏と何度も会って懇談し、安倍氏が繰り出してくる外交や安全保障に関する詳細で実質的な質問に答えてきただけだ。

 

安倍氏は戦略を学問として研究したことはないが、戦略を本能的に理解し、生まれつき戦略的な思考を身につけていた。

 

当時の私の仕事は安倍氏の意向を受け、国家安全保障局に配置される外務省や防衛省の職員らに訓練を施し、同じ職場で意思疎通できるよう意識を変えることだった。彼らの多くは後に幹部や将官に昇進した。

 

安倍氏は、日本の安全保障政策や戦略策定の仕組みを根本から変えた。

 

以前であれば、例えば日米関係では外務省は国務省、防衛省は国防総省、海上自衛隊なら米海軍と個別に話し合って政策を調整し、日本側は省庁間で連携しなかった。それぞれが事実上の米国の出先機関と化し、日本国として複数の指があっても一つの手として自律的に動くことのできない状態だったのだ。

 

特に外務省と国務省との間では、ライシャヮー元駐日米大使(在任1961〜66年)にちなみ「ライシャワーライン」と呼ばれる人脈があり、日本の軽武装、専守防衛、自衛隊の海外派遣禁止にこだわり続けた。

 

安倍氏の下では、外交官と自衛隊関係者が意見を交わし、日本が自らの手で外交・安保政策を作り上げる体制ができた。安倍氏は、日本外交が独立性を増し、適切な責任を負うことで、日本が米国のより良き同盟国になることができると確信していたのだ。

 

その意味で、国家安全保障局の設立は、安倍氏の指導力なしでは実現し得なかった、外交・安保分野での最大の遺産といえる。

 

 

日本外交の「革命」を継げ

 

安倍氏は、関係省庁の権限を国家安全保障局に集約させ、日本の政策決定過程を変え、政治構造を変えた。諸外国では、似たような組織をつくっても各省庁が自らの権益を優先させて優秀な人材を出し渋り、役に立たないことが多い。

 

日本では谷内正太郎氏という傑出した人材が初代の国家安全保障局長を務めたほか、外務省などから優秀な職員らが送り込まれ、発足初曰から機能した。

 

もう一つの遺産は「独立した外交政策」だ。

 

例えばロシアとの関係だ。安倍氏は、北方領土が返還される見通しがないことは最初から分かっていたが、プーチン露大統領と対話することで、日本には米政策の延長ではない独自の外交政策があることを見せつけようとした。

 

また、世界各国・地域を俯瞰する「地球儀外交」を通じ、中国に接するカザフスタンやミャンマーとの関係強化にも努めた。

 

イン‐ドとの関係を緊密化したことも非常に大きな貢献だ。

 

安借氏は、モディ首相が西部グジャラート州首相だった2007年頃から交流を重ね、日印関係を飛躍的に前進させた。日印の艦船による合同訓練も行われるようになった。強固な日即関係は、中国に対する防壁になるという意味で非常に重要だ。

 

安倍氏が実行したのは日本外交の「文化革命」で、後戻りすることはない。民主党の菅直人政権下の10年に尖閣諸島(沖縄県石垣市)沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりした事件で、中国の圧力に屈して、逮捕された漁船の船長が釈放されたような事態は二度と起きないはずだ。今月10日の参院選では自民党などの改憲勢力が議席の3分の2以上を確保したが、安倍氏は自身の目で見たかったこと‐だろう。

 

一方で、少子化などの社会問題では、安倍氏は外交・安保政策で見せたような指導力を発揮し切れず、多くの課題が残された。

 

いずれにせよ、岸田文雄首相を筆頭とする安倍氏の後継者たちは、安倍氏が持ち合わせていた、何者にも臆することなく日本の最終的勝利を確信して行動した「勇気」を受け継いでいかなくてはならない。特に中国への対処には、こうしたブレのない心構えが最も大切なのだ。(聞き手 黒瀬悦成)

 

 

 

■ 元ロシア国務長官を偲ぶ

 

 

産経新聞の「世界裏舞台」に佐藤優氏が「ロシア国務長官を偲ぶ」と題して、気になる寄稿文を載せていましたので書き起こして掲載します。

 

ロシア人にもこういう意見を持った人がいるんだね。非常に参考になりました。

2022/07/15

 

作家 佐藤優氏 
作家 佐藤優氏 

 

佐藤 優(さとう まさる、1960年〈昭和35年〉1月18日 - )は、日本の作家、元外交官。同志社大学神学部客員教授、静岡文化芸術大学招聘客員教授。学位は神学修士(同志社大学・1985年)。在ロシア日本国大使館三等書記官、外務省国際情報局分析第一課主任分析官、外務省大臣官房総務課課長補佐を歴任。その経験を生かして、インテリジェンスや国際関係、世界史、宗教などについて著作活動を行なっている。東京都渋谷区生まれ。1975年、埼玉県立浦和高等学校入学。高校時代は夏に中欧・東欧(ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、ポーランド)とソ連(現在のロシア連邦とウクライナ、ウズベキスタン)を一人旅する。同志社大学神学部に進学。同大学大学院神学研究科博士前期課程を修了し、神学修士号を取得した。1985年4月にノンキャリアの専門職員として外務省に入省。5月に欧亜局(2001年1月に欧州局とアジア大洋州局へ分割・改組)ソビエト連邦課に配属された。1987年8月末にモスクワ国立大学言語学部にロシア語を学ぶため留学した。1988年から1995年まで、ソビエト連邦の崩壊を挟んで在ソ連・在ロシア日本国大使館に勤務し、1991年の8月クーデターの際、ミハイル・ゴルバチョフ大統領の生存情報について独自の人脈を駆使し、東京の外務本省に連絡する。アメリカ合衆国よりも情報が早く、当時のアメリカ合衆国大統領であるジョージ・H・W・ブッシュに「アメイジング!」と言わしめた。佐藤のロシア人脈は政財界から文化芸術界、マフィアにまで及び、その情報収集能力はアメリカの中央情報局(CIA)からも一目置かれていた。日本帰任後の1998年には、国際情報局分析第一課主任分析官となる。外務省勤務のかたわら、モスクワ大学哲学部に新設された宗教史宗教哲学科の客員講師(弁証法神学)や東京大学教養学部非常勤講師(ユーラシア地域変動論)を務めた。

 

 

 

元ロシア国務長官を偲ぶ

 

ロシアでエリツィン政権初期に国務長官を務め、日露関係でも重要な役割を果たしたゲンナジー・ブルブリス氏が6月19日、国際会議に出席するために訪問していたアゼルバイジャンの首都バクーで亡くなった。76歳だった。報道によれば、同日の昼までブルブリス氏は元気だったが、夜にホテルのサウナで倒れているところを発見された。既に死亡していたという。

 

ゲンナジー・ブルブリス氏AP
ゲンナジー・ブルブリス氏AP

 

 

ブルブリス氏はソ連崩壊のシナリオであるベロベーシ合意が1991年に起案された際の中心人物だった。だから、ソ連崩壊を「20世紀最大の惨事」と主張するプーチン大統領下のロシアにおいてブルブリス氏の評価は極めて低い。同氏の死去について伝えるロシアの新聞も否定的コメントを付している。

 

エリート層に影響を与えるイズベスチヤ(電子版)は6月19日、こう報じた。

 

《CIS一ューラシア統合・在外同胞問題に関する国家院(下院)委員会のレオニトード・カラシェコフ委員長は「ソ連崩壊の父」を自任していたブルブリスについてこう述べた。「死者について悪く言うことはよくないが、私はブルブリスについて善いことを何一つ覚えていない。彼自身がソ連崩壊とベロベーシ合意の父であると述べていた。私個人としては全く是認することができない」》

 

現在のロシアでは政治エリートも大衆も、ブルブリス氏について忌避反応を示している。

 

筆者はこのような評価は不当だと考える。ブルブリス氏のように聡明で胆力のある政治家がいなければ、ソ連共産党による全体主義体制が崩壊することはなかった。筆者はブルブリス氏と非常に親しくし、家族ぐるみで付き合っていた。ブルブリス氏は気難しく、極端な能力主義者で、政敵だけでなく味方の陣営でも能力不足と見なした人間を一切無視するという姿勢をとっていたので敵が多かった。理由はよくわからないが、筆者はブルブリス氏に気に入られ、事務所はもとより自宅や別荘にも自由に訪れることを認められていた数少ない外国人だった。

 

ブルブリス氏はロシア要人の中で一番初めに、ロシアは北方四島を日本に返還すべきであると公の場で述べた人物でもある。それは1993年8月末から9月初めに同氏が初めて訪日したときのことだった。当時、筆者はモスクワの日本大使館の二等書記官だったが、ブルブリス氏に同行するために一時帰国していた。根室で元島民と会った後、夕食のときブルブリス氏は筆者にこう言った。

 

「私は南クリル(北方領土に対するロシア側の呼称)問題に対する姿勢を決めた。日本人の元島民は、現在のロシア人島民と共生したいと述べていた。日本にロシア人を排斥しようとする機運はない。ロシアで現在進んでいる改革は、スターリン主義と断絶することだ。内政における自由化、民主化、市場経済への移行も脱スターリン主義化の一環だ。国際関係においても脱スターリン化が進められなくてはならない」

 

ブルブリス氏は対日外交でも反スターリン主義を貫く必要があると主張した。

 

「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の4島はスターリン主義のソ連が日本から強奪したものだ。日本人がこのような過疎の島は経済的負担が増えるのでいらないと述べても、ロシアは自発的に4島を日本に返還しなくてはならない。なぜなら4島返還はロシアがスターリン主義と訣別したことの証左になり、国際社会でロシアが尊敬されるために必要だからである。北方領土の返還こそがロシアの長期的国益に貢献する」

 

ブルプリス氏は東京での記者会見でもこの見解を表明した。ロシアでブルブリス氏の発言は激しく叩かれたが、同氏は主張を貫き通した。ブルブリス氏は訪日結果をエリツィン大統領に直接報告した。このことがエリツィン氏に少なからぬ影響を与えた。

 

その後、プーチン政権になってからもブルブリス氏は北方領土問題に関する持論を変えなかった。2014年のロシアによるクリミア併合に反対すると表明した後、ブルブリス氏がロシアのマスメディアに登場することはなくなった。同氏の反スターリン主義は筆者の心の中で今も生きている。(作家佐藤優)

 

 

 

■ 国連の病理、癒着の構造

 

 

産経新聞のThe 考に、「国連の病理 癒着の構造」と題して、気になる、島田洋一氏の考察が載っていましたので書き起こして掲載します。

 

国連はもうほとんど機能していないのが実情ですね。ここまできても、実現不可能な「安保理常任理事国入り」を悲願として巨額の税金を投入する政府や政治家は、まじめに考えているのかな?

2022/07/12

 

 

国連の病理 癒着の構造 島田洋一

2022/7/7 08:00 国際

 

国際政治学者 島田洋一氏
国際政治学者 島田洋一氏

 

島田 洋一(しまだ よういち、1957生まれ )は、日本の国際政治学者。福井県立大学学術教養センター教授、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会副会長、国家基本問題研究所評議員兼企画委員。

 

 

国連の病理 癒着の構造

中国から特別報告書に20万ドル

 

今年5月、国際連合人権理事会の下で実態調査や報告に当たる特別報告者アリーナ・ドゥハン氏(ベラルーシ国立大学教授)が、中国からの20万ドルをはじめ、複数の独裁国家から金銭を受け取っていたと国連監視団体UNウオッチが発表し、問題になった。

 

記者会見に臨む国連特別報告者のアリーナ・ドゥハン氏=5月18日、イラン・テヘラン(AP) 
記者会見に臨む国連特別報告者のアリーナ・ドゥハン氏=5月18日、イラン・テヘラン(AP) 

 

 

驚くべきことに、この事件に驚くべき点は何一つない。国連という組織の本質に由来する構造的な癒着である。順を追ってみて行こう。

 

ことの起こりは、イラン核開発疑惑に対する米国など関係国の制裁に反発したイランが、その不当性を訴えたことである。2014年9月26日、国連人権理事会は、人権侵害を理由とした一方的制裁を非難する決議を賛成多数で採択した。その中で、実態調査に当たる特別報告者の設置も決められた(同決議22条)。この決議を推進し、賛成したのは中国、ロシア、キューバ、ベネズエラなど32ヵ国、反対したのは日米英独仏伊など14ヵ国、棄権が2ヵ国だった。

 

常識が邪魔をして、一瞬意味を取り損ねた読者もいるだろうから確認しておけば、採択されたのは人権侵害に対する制裁決議ではなく、その「制裁を非難する」決議である。

 

すなわち、人権理事会は、イラン制裁のように米国など有志諸国が国連の枠外で科す人権制裁を牽制し、必ず人権理事会多数派の承認を必要とする仕組みとするため、非民主国家が中心になり、決議を採択したのである。

 

これを受け、20年3月に特別報告者に就任したのが問題のドゥハン氏。ロシアのウクライナ侵略を盟友として支援する、ベラルーシの独裁者ルカシェンコ大統領の御用学者である。彼女は「国連」の看板を最大限利用して、精力的に独裁国家の「現地調査」に赴き、自由主義諸国によるイラン、シリア、ベネズエラ、キューバ、ロシア、ジンバブエなどに対する制裁は、現地の経済を悪化させ、国民を苦しめるのみだとする批判的発信を続けた。一方、独裁権力側の暴虐については黙認。ウイグル人の強制労働などが問題となる中国についても、「ウイグル人弾圧」など存在せず、実態は新彊ウイグル自治区の発展に資する職業訓練だと喧伝するシンポジウムに参加するなど、中国側のプロパガンダに寄り添ってきた。

 

まさに倒錯の世界だが、人権理事会の決議に照らせば、ドゥハン氏は「適任」であった。今回発覚した中国などからの金銭問題は、あくまで付随的な非行に過ぎない。存在意義を厳しく間われねばならないのは、何より「人権制裁非難決議」を通した国連人権理事会そのもの、さらには国連そのものなのである。

 

 

不正の「もみ消し工場」

 

国連人権理事会は、その名に反して、人権蹂躙国家群が談合し、互いの不正行為を闇に葬る「国際もみ消し工場」の様相すら呈している。次第にそう変質したのではなく、初めからそうだつた。

 

理事国に関わる問題は取り上げないという不文律がある上、定数47の理事国は、政情不安や独裁などで人権問題がある諸国にも多く割り当てられる。国連総会で選出されるが、議席は地域グループごとに割り振られ、アフリカ13、アジア太平洋13、東欧6、中南米8、西欧その他7となっている(任期3年)。

 

では割り振りの変更や資格要件の厳格化が可能かというと、自国の人権問題に触れられたくない国々が多数を占める国連総会で枠組みが決定される以上、それはあり得ない。すなわち人権理事会は、構造的に改革困難な組織なのである。

 

米国は18年6月、当時のトランプ政権が同理事会からの脱退および拠出金の支払い停止を決めたが、以上のような背景あってのことである。当時朝日新聞が社説で「人権を重んじる大国を標榜してきた米国が、自らその看板を下ろす行動を続けている」「(人権理事会は)国連総会が選ぶ47の理事国が集い、世界の人権を監視している組織だ」と書いているが、現実遊離で笑止という他ない。当時ヘイリー米国連大使は、「偽善と腐敗」に満ち、「恐るべき人権抑圧履歴を持つ国々の隠れ蓑となっている人権理事会」にこれ以上正統性を与えないため、米国が率先して脱退したと述べた上、国連は「米国やイスラエルを非難する独裁者のつまらぬ演説パフォーマンスに多くが立ち上がって拍手する場」に過ぎないと露骨に嫌悪感を示している。

 

もちろん人権理事会にも、北朝鮮調査委員会を設置するなど例外的に功績はある(14年に報告書提出)。しかし、これも北朝鮮と国境を接する中国から協力が得られず、報告書が「大変遺憾」と特記したように、実態調査に不十分な点が残った。

 

 

なぜ日本は幻想を抱ぐ

 

国連の活動や事業には元々首を傾げざるを得ない面が多々あったが、事情は悪化している。最大の権限を持つ安全保障理事会は、拒否権を握る常任理事国5ヵ国にロシアと中国が含まれ、ロシアのウクライナ侵攻非難決議すらできなかつた(ロシアが拒否権発動(中国は棄権)。

 

現在の枠組みの下で多少なりとも国連の改革は可能。ボルトン元米国連大使は、唯一の方法は運営資金の「割当拠出制」を「自発的拠出制」に改めることだという。すなわち経済力=国内総生産(GDP)=に応じて拠出金を割り当てる現在のシステムを、各国が自主的判断で「機能的な事業にのみ資金を拠出し、コストに見合った結果を求める」システムに替え、各国の判断で機能不全の事業から撤退できるようにする必要を訴える。

 

「国連も『市場テスト』に掛けようということだ。加盟国は、意義なしと判断した事業からは資金を引き揚げればよい。国連以外の事業体の方が効率的と判断すれば、そちらに資金を振り向ければよい。国連を優遇する理由はどこにもない」

 

日本では、中露が拒否権を持つこの異形の組織を特別に重視する「国連第一主義」が根強いが、まさに「国連幻想」に他ならない。国連はあくまで数ある多国間フォーラムの一つに過ぎない。むしろG7(先進7ヵ国)のような先進自由民主国家の集合体にかける比重をできる限り高めていくべきだろう。ここでは中露は拒否権どころか、参加すら許されていない。

 

「安保理常任理事国入り」を、いまだに日本の「国連第一主義者」たちは悲願とする。国連ロビー活動に相当な税金を浪費してもきた。しかし、常識的に見て実現の可能性はない。常任理事国は具体的国名が国連憲章に列挙されており、日本が加わろうとすれば憲章の改正が必要になる。

 

改正は、「総会の構成国の3分の2の多数で採択」された後、「安保理のすべての常任理事国を含む加盟国の3分の2によって批准され」ねばならない(第108条)。仮に総会で3分の2という第一の関門を突破しても、中露が国内で批准手続きを完了しない限り、日本は永遠に常任理事国となれない。

 

中露にすり寄る土下座外交を展開すれば(それ自体論外だが)、逆にアメリカの批准が得られなくなろう(上院の3分の2の賛成が必要)。どう転んでも泥沼にはまる構図である。先日、バイデン米大統領が来日時に、改めて岸田文雄首相に対し「日本の常任理事国入り支持」を表明したが、リップサービス以上のものではない。

 

 

 

■ 日本再建に尽くした安倍元首相

 

 

産経新聞正論に、江崎道郎氏の「日本再建に尽くした安倍元首相」のコラムが載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

いい政治家がまた亡くなりました。外交での功績は大ですね。

2022/07/11

 

 

日本再建に尽くした安倍元首相 評論家・江崎道朗

2022/7/11 08:00  コラム 正論

 

情報史学者・評論家 江崎道朗氏 
情報史学者・評論家 江崎道朗氏 

 

江崎 道朗(えざき みちお、1962年 - )は、日本の評論家、情報史学者。専門は安全保障・インテリジェンス・近現代史研究。福岡県大川市生まれ。福岡県立伝習館高等学校を卒業。1984年、九州大学文学部哲学科を卒業。「日本を守る国民会議」事務局、日本青年協議会月刊誌『祖国と青年』編集長を経て、1997年から日本会議事務総局に勤務、日本会議国会議員懇談会の政策研究を担当する専任研究員。2020年3月には渡瀬裕哉、倉山満とともに「救国シンクタンク」を設立した。

 

 

日本再建に尽くした安倍元首相

 

安倍晋三元首相が凶弾に倒れた。67歳だった。さぞかし無念であったに違いない。

思えば、とくに第2次政権以降、7年8カ月にわたり、多くの成果を挙げたが、とりわけ以下の3つは銘記すべきだろう。

 

 

銘記すべき3つの成果

 

第1に、アベノミクスを推進したことだ。具体的にはデフレ脱却を掲げ日本銀行による金融緩和を進めて雇用改善に努めたことだ。

 

第2に、政権支持率が下がることを覚悟のうえ、特定秘密保護法や平和安全法制などを整備し、外交・安全保障とインテリジェンスの機能を強化したことだ。

 

第3に、国家安全保障会議(NSC)を創設して国家安全保障戦略を策定し、自由で開かれたインド太平洋構想を推進したことだ。

 

国家戦略とは、いかなる国益を守るために誰を味方にして、誰を中立とし、誰を脅威とみなすのか、日本の国益と戦略を規定したものだ。実は戦後の日本には「DIME」と言って、Diplomacy(外交)、Intelligence(情報・インテリジェンス)、Military(軍事)、Economy(経済)の4つを組み合わせた国家戦略は存在しなかった。ある意味、戦後日本は国家戦略について米国に依存してきたのだ。

 

ところが平成25年12月、第2次安倍政権は初めて日本独自の国家戦略を策定し、日本自身の主体的な判断で米国とだけでなく、豪印英加などとの防衛協力を強め、日本の国際的地位を高めようとしてきた。その意義はもっと評価されてしかるべきだ。

 

 

中国の台頭に対応せよ

 

では、なぜこうした成果を出すことができたのか。

 

21年9月に民主党政権が誕生し、その直後の10月に保守系のリーダー格だった中川昭一元経済産業相が急逝してしまう。次の保守系リーダーは誰なのか、議論が重ねられ、「再度、安倍氏に登板していただこう」となり22年2月に創生「日本」という超党派の政策集団が発足した。

 

《私たちは戦後ただの一度も憲法を改正できず、自分の国は自分で守るということも、誇りある歴史と伝統を学校教育を通じて次代の子供たちに伝えることも、公務員制度を含む行政改革も十分になし得てこなかった責任を強く自覚せざるを得ない。誇りある独立国家として復活するためには、このような「戦後レジーム」からの脱却を何としても成し遂げなければならない》―。これが創生「日本」の基本理念だった。

 

民主党政権を批判するだけでは不十分だ、豊かで強い国へと日本を立て直さなければならない。そういう思いで創生「日本」は政権構想を練り上げ、24年秋、『新しい「日本の朝」へ』という政策集を作成した。そこには、中国の脅威への備えが最優先課題であるとして次のように記された。

 

《隣国・中国の軍事的台頭による日本周辺の軍事的・外交的環境の激変。この現実を前に、日本が何らの対応もなし得なければ、日本は独立の国家たり得ないだけでなく、『誇りある国家』として存続し得ない》

 

よって安倍元首相は中国の台頭に対応すべく集団的自衛権の一部行使容認に踏み切り、日米同盟を深化させていくと共に味方を増やす、つまり日米豪印戦略対話(クアッド)を拡充し、自由で開かれたインド太平洋構想を推進するという国家戦略を打ち出したのだ。

 

 

残された課題

 

とはいえ、こうした思い切った国家戦略を推進するためには国民の支持が必要で、その支持獲得のためにも必要なのは経済成長、デフレ対策だった。政策集にもこう記されている。

 

《日本経済はバブル崩壊以降、アジア通貨危機、IT不況、9・11テロ、リーマン・ショック、東日本大震災という一連の試練に直面してきた。そのような相次ぐ困難によるものとはいえ、この間、日本経済が一定の足踏み状態を続けてきたのは事実である。その最大の原因は明らかに長引くデフレである》

 

何よりも、日本が経済成長を続けていれば、中国にこれほど後れをとることもなかったはずなのだ。そこでデフレ脱却を最優先課題に据え、金融緩和に踏み切ったわけだ。

 

もっとも、安倍元首相という〝重し〟を失った今、金融緩和を止めたり、増税したりと、間違った金融・財政政策が採用されないともかぎらない。外交・安全保障体制の拡充も、国内総生産(GDP)比2%へと防衛予算の増加が伴わなければ画餅に帰そう。

 

安倍元首相は退陣後も、伝統に基づく皇室制度の再建、北朝鮮の拉致問題、歴史戦と対外インテリジェンス機関の創設、台湾との安全保障関係の構築、そして憲法改正といった課題に精力的に取り組み、国政を牽引(けんいん)していた。これらの課題解決の動きを今回のことで失速させてはならない。

 

安倍元首相は日本再建のエンジンだったのだ。ここに心より哀悼の誠を捧(ささ)げたい。(えざき みちお)

 

 

 

■ 安倍元首相追悼、「日本取り戻す」受け継ごう

 

 

産経新聞に櫻井よしこ氏の寄稿文「安倍元首相追悼」が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

2022年7月8日、安倍元首相が暗殺されました。世界に残る政治家でした。本当に残念ですね。

2022/07/10

 

 

安倍元首相追悼、「日本取り戻す」受け継ごう 櫻井よしこ氏

2022/7/9 22:42櫻井よしこ  政治

 

国家基本問題研究所理事長 櫻井よしこ氏 
国家基本問題研究所理事長 櫻井よしこ氏 

 

櫻井 よしこ(さくらい よしこ、1945年生まれ )は、日本の政治活動家。国家基本問題研究所理事長、言論テレビ株式会社代表取締役会長、「21世紀の日本と憲法」有識者会議代表、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」共同代表。

 

 

安倍元首相追悼、「日本取り戻す」受け継ごう

 

 

安倍晋三元首相が暗殺された。このテロを心から憎み、憤っている。対象が保守であろうが革新であろうが、テロは許さない。だが、安倍氏は暗殺された。世界情勢激変の中で国家の命運を懸けた大決断が必要な今、その任に最もふさわしいと期待されながらの悲劇である。

 

安倍氏は米国のトランプ前大統領、ロシアのプーチン大統領ら手ごわい指導者をも魅了する素晴らしい日本人だった。安倍氏は首相になるとき、「日本を取り戻す」と叫んだ。取り戻そうとしたのは日本の価値観だ。日本は元々どんな国で、なぜ大東亜戦争を戦い、敗れたのか。日本の夢と懊悩(おうのう)に満ちた近現代史を、祖父の岸信介元首相、父の晋太郎元外相らから血肉を分ける形で学び育った。戦後の占領下で日本の価値観や法制度がどのように否定され、置き換えられたかを成長過程で見聞したはずだ。日本を取り戻すと叫んだ心の奥に、こうした日本国のたどった道への理解と共鳴があったと思う。

 

だからこそ、第1次安倍政権では教育基本法の改正、国民投票法の制定、防衛庁の「省」昇格などを急いだ。戦後、日本の形を決定づけた現行憲法の改正を自らの政治使命だと誓った。第2次安倍政権では、国の守りを強化する特定秘密保護法安全保障関連法を、10ポイントも支持率を落としながら成立させた。

 

身を削って戦う姿勢は外交一でも同様だ。尖閣諸島(沖縄.県石垣市)周辺に公船を送り込む中国に対して「日本の覚悟を見誤るべきではない」「日本は戦う用意がある」と伝え続けた。北朝鮮による粒致問題は、国家としても、人間としても最重要課顧だととらえ、すべての首脳会談で拉致問題を取り上げた。「対話と圧力」から圧力に軸足を移し、北朝鮮を追い込んだ。受け身で道は開けない。天は自ら助くる者を助けると信じ、日本国の志を掲げ続けた。

 

わが国は604年の十七条憲法制定から民を大切にし、争い事の裁きでは公正さを重んじた。それから約1300年後、明治政府は十七条憲法の精神を引き継ぐ五箇条の御誓文を国是とした。民主主義の精神をわが国は外国から輸入いたのではなく、自ら育ててきたのだ。

 

日本国の歴史的事実を誇りとし、穏やかながら雄々しい文化を身につけた安倍氏だったからこそ、国際社会ではどの国の指導者にも位負けしなかった。「自由で開かれたインド太平洋」構想、日米豪印の枠組み「クアッド」、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)などの戦略も生み山し、国際社会で日本の地位をかってなく高めてくれた。

 

私たちは今こそ安倍氏の志と戦略を力強く受け継ごう。憲法改正で前進するのだ。素晴らしい指導者だった安倍氏の死を海よりも深く悼み、心からの敬意を表したい。(櫻井よしこ氏寄稿)

 

安倍晋三氏 
安倍晋三氏 

 

安倍 晋三(あべ しんぞう、1954年生まれ)は、日本の政治家。第90・96・97・98代内閣総理大臣を務めた。歴代総理大臣中通算在任日数・連続在任日数ともに最長である。位階勲等は従一位大勲位。 他に山口1区後山口4区選出の衆議院議員、自由民主党総裁、自由民主党幹事長、内閣官房長官、清和政策研究会会長、自由民主党幹事長代理、内閣官房副長官等を歴任した。

 

 

 

■ 中露に不都合な国連の機能不全

 

 

産経新聞の世界を解くに、気になる、細谷雄一氏の、中露に不都合な国連の「機能不全」が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

国連の機能不全は大変な問題ですね。そのためには日本は何をするかは一目瞭然だが、何もしない政府は何を考えているのやら?。

2022/07/07

 

 

世界を解く・・細谷雄一 中露に不都合な国連の「機能不全」

2022/6/28 16:30宮下 日出男 国際

 

国際政治学者 細谷 雄一氏 
国際政治学者 細谷 雄一氏 

 

細谷 雄一(ほそや ゆういち、1971年生まれ)は、日本の国際政治学者。専門は、国際政治史・イギリス外交史。学位は、博士(法学)(慶應義塾大学・2000年)。慶應義塾大学法学部教授

 

 

中露に不都合な国連の「機能不全」

 

国連の「機能不全」に対する失望が深まっている。ウクライナを侵略するロシアは安全保障理事会で拒否権を行使し、非難決議案の採択を阻止した。中国はロシアとともに、弾道ミサイル発射を繰り返す北朝鮮への制裁強化決議案を拒否権で否決に追い込んだ。2006年以来初めてだ。

 

第一次大戦後の国際連盟は米国が参加せず、常任理事国の日独伊が脱退して挫折した。今の安保理5常任理事国の拒否権は、国際社会の平和と安全を守るには大国間協調が不可欠との考えから、その特別な責任を負う代わりに認められた。

 

だが、中露は特権を利用して、国連を国益実現の道具としている。自身に制裁を科すような安保理決議をつくらせない。安保理決議のない米欧の軍事力行使は認めないとし、自らが「国連の擁護者」とのプロパガンダ(政治宣伝)に活用する。国連が「正義」を体現する組織であれば、中露は常に「正義」の側に立つことができる。

 

国連が本当に「正義」を示すには、拒否権を封じてロシアに制裁を科すことが重要だが、ロシアは特権を失えば国連を脱退する可能性もある。大国に国際機構は必ずしも必要でない。拒否権は、国連が国際連盟のように瓦解せず機能する基礎でもあるのだ。

 

大国間協調を重視する国連体制は、ナポレオン戦争後の19世紀前半、絶対王政の欧州諸国が秩序の回復・維持のために築いた「ウィーン体制」の精神を継承する。その意味で国連は「正義」より「秩序」を優先した大国主義の組織でもある。中露の加盟を重視するなら、拒否権は「必要悪」となる。

 

国連は今、「正義」と「秩序」の重大なジレンマに陥っている。その正当性と信頼が大きく傷つき、規範を支える力は衰退している。国連の危機だ。 

 

ただ、国連の権威低下で損をするのは中露だ。国連が機能しなければ、主権国家は安全を守るために自助努力をせねばならない。同盟への依存も高まる。実際、中立政策をとつてきたフィンランドとスウェーデンは北大西洋条約機構(NATO)加盟へと舵を切った。

 

 

日本の役割は「正義」の浸透

 

国連体制は実のところ、「機能しない」ことも考慮して設計された。創設前、当時のルーズベルト米大統領はソ連との協力が持続可能と想定していたが、英国はソ連との協力が難しく、国連の集団安全保障は機能しないことも想定した。その補完として国連憲章で認められたのが、個別的および集目的自衛権と地域機関設立だ。

 

この2つはその後のNATO設立の基礎となった。米国は国連の精神を損なうと集団的自衛権の容認に消極的だったが、英国はNATOにつながる地域主義構想を並行して進めてもいた。国際情勢は揺れ動く。国連と同盟を安全保障の2本柱とし、重心を大国間協調がうまくいくときは国連、うまくいかないときは同盟に置く。国連体制に組み込まれた英国のリアリズムだ。 

 

現在は国連が有効に機能する時代ではない。国際政治の潮流は今後30年ほど、同盟が中核となる。これはほとんど同盟国を持たない中露にとっては好ましくない傾向だ。NATOが強くなるほどロシアには戦略的に不利となる。日米豪印の協力枠組み「クアッド」も強化され、中国包囲網が構築されてきた。国際連盟を脱退した日本は今、NATO首脳会議にも出席し、同盟の輪を広げている。

 

世界は今後、米国主導の民主主義体制と中露の権威主義体制、南半球を中心とした途上国の「グローバルサウス」という3つに分かれていく。国際秩序の行方を左右するのは、グローバルサウスの動向だ。

 

グローバルサウスは冷戦時代に「第三世界」と呼ばれ、社会主義への共鳴が強かつた国々だ。「正義」よりも経済利益を重視し、近年は中露が連携を深めてきた一方、日米欧は十分に提携を深めなかった。

 

ただ、国連総会では対露非難決議が中露の根回しにもかかわらず、大きな賛成で採択された。棄権も予想より少なかった。やはり誰がみてもロシアの侵略行為はひどいのだ。国連総会は国連としての「正義」を一定程度、担保した。

 

米国は冷戦後、国連を軽視し、国連での指導力低下を招いたが、日本は国際社会での信頼が高い国の一つだ。史上最多の12回日となる非常任理事国に選出されたのは信頼の表れだ。国連をうまく利用すれば、「正義」を自らの側に引き寄せられる。日本の役割は同盟関係を基礎にグローバルサウスに「正義」を浸透させていくことだ。(聞き手 宮下日出男)

 

 

 

■ 君民の絆の象徴靖国神社

 

 

産経新聞の正論に、小堀 桂一郎氏のコラム「<君民の絆>の象徴・靖国神社」が載っていましたので掲載します。

 

靖国神社は一度訪れたことがありますが、日本の歴史にとっては非常に大事なところですね。

2022/07/01

 

 

<君民の絆>の象徴・靖国神社 東京大学名誉教授・小堀桂一郎

2022/6/29 08:00小堀 桂一郎 コラム 正論

 

東京大学の小堀桂一郎名誉教授 
東京大学の小堀桂一郎名誉教授 

 

小堀 桂一郎(こぼり けいいちろう、1933年生まれ)は、日本の文学者。東京大学名誉教授、明星大学名誉教授。専攻はドイツ文学、比較文学、比較文化、日本思想史。

 

 

御創建記念日にあたり

 

6月29日は靖国神社の御創建記念日である。周知の如くこの神社は元来明治2年にこの日付で東京招魂社として創建されたもので、当時はまだ旧暦を用ゐてゐたから新暦なら7月の末に当り、暑い盛りであつた。明治5年末の新暦採用後、旧暦の日付をそのまま新暦に移し、謂(い)はば季節的には1箇月ほど早い時期に繰り上げられた。

 

令和2年の春以来、諸種の儀式祭典での人寄せを屋外屋内共不可能にしてゐた悪質の感染症も昨今漸(ようや)く終熄(しゅうそく)の兆が見えて来た。靖国神社の崇敬奉賛活動も、青年部の人々は奉仕や教化の諸行事を再開し、7月のお盆に日取りを合せたみたま祭も今年は例年の賑はひを取りもどしてくれるであらう。

 

此を機会に御創建から今日迄(まで)の百五十余年の歳月、靖国神社が国民の内面生活に占めて来た意味の消長について更(あらた)めて考へてみた。その結果の要点を紙面の制約上、意を尽くせぬことは承知での上で、以下に切詰めて記す。

 

招魂社御創建以前の段階、明治元年夏の江戸城西大広間で斎行された幕末・維新前夜の国事殉難者の招魂の祭典での御祭文を始めとし、招魂社仮社殿が落成しての最初の祭典、中日に当る盛大な儀式で奉読された三種の祝詞(のりと)に共通して引用されてゐる重要な古典の語句がある。即ち大伴家持の作で万葉集巻18に収録されてゐる長歌に含まれた<大伴氏言立(ことだて)>である。

 

これは天平時代、聖武天皇の御代に陸奥国から黄金が献上された慶事を言祝(ことほ)ぐ長歌としてよく知られ愛誦(あいしょう)されてゐる作品なのだが、作者家持は、己の属する大伴氏一族が神代の昔から大君の御門(みかど)の守りを務めて来た誇り高き名門の家柄であると言立してゐる。

 

そしてその忠実な奉仕の覚悟の程を<海ゆかば水漬(みづ)く屍(かばね)、山ゆかば草生(む)す屍…>との千古不滅の名文句で詠ひ上げてゐる事も、万葉集に拠(よ)るまでもなく国民の誰もがよく知つてゐる話であらう。

 

 

お社と皇室との強い結びつき

 

招魂社御創建時の祝詞の中に多少の字句の異同を伴ひながらもこの名句が反復引用され、且(か)つ草創期には連年その祝詞が使用されてゐたらしい形跡は、このお社と皇室との強い結びつきを語つてゐる。その結びつきは現に例祭に勅使が参向する全国16の勅祭社の一つで、それも春秋2度の例祭に両度とも勅使の御差遣を仰ぐのは靖国神社のみといふ緊密さである。

 

この様に皇室とその譜代の忠臣との親密な関係を軸として発足した靖国神社は、明治時代に日本が経験した2つの対外戦争、殊に強大国ロシアとの大戦争を経た時には御祭神の数がそれまでの約40年間の柱数の約3倍となつた。謂つてみればこの神社の象徴する<君臣の絆>の臣の層が一挙に厚くなつた。

 

日露戦争が始まつた年の秋に働き盛りの54歳で歿(ぼっ)した小泉八雲はその絶筆となつた『神国日本』の最終章で、全く予期しなかつた日本軍の強さの根柢にあるのは、死ねば招魂社に永く名を留(とど)める事ができるといふ国民の信仰心である、との観察を記してゐる。

 

この国民の守護神信仰の熱誠は八雲の証言より三十余年の後、昭和12年夏の支那事変の発生により更に大きな試練を受ける事になる。7月の盧溝橋事件、通州事件、8月の蔣介石による対日抗戦総動員令と続く国難到来の実感に国民の緊張は高まり、次々と出征を命ぜられる兵士達の覚悟も悲愴の色彩を帯びて行つた。

 

この空気を芸術家特有の敏感を以て感得した信時潔の『海ゆかば』は、個々の局地的戦闘では日本軍の連勝であつた12年10月の作曲・発表であるにも拘(かかわ)らず、何か沈痛の気を湛(たた)へた鎮魂曲の如き響を持つてゐた。そしてこの曲の楽譜に作曲家が自筆を以て<大伴氏言立>と副題を明記してゐたといふ逸事も伝へられてゐる。

 

 

絆の健在を証示する国民の志

 

この名曲を戦時下の国民に贈る時、信時の心底に存したのは、国民共有の記憶が持つ力の源泉としての靖国神社に<君民の絆>としての強力な紐帯(ちゅうたい)の役割を期待する祈願だつた。

 

翌昭和13年1月の日支和平工作の打切声明以降、動員される兵士達は生還を期する事を望めない覚悟の下、<靖国で会はう>を合言葉として勇躍戦場に向つて行つた。靖国に祀られた暁には天皇陛下も御親拝下さる、といふのが庶民出身の兵士達には望外の栄誉であり、戦場に向ふ身にとつての最上の激励であり慰藉(いしゃ)でもあつた。

 

皇室は、兵士達との間に交されてあつた暗黙の約束を、昭和20年11月の臨時大招魂祭迄は、連年着実にお守り下さつた。然(しか)しその年12月に占領軍総司令部が神道指令を発出して、この日本国の強さの淵源である<君民の絆>を絶ち切るための宣伝工作を開始した。

 

斯(か)くて皇室の御尊崇を公けに発現し難くなると、この絆の健在を証示するのは国民の側の役割となる。この役割の交替は交渉や談合を一切必要とせぬ、阿吽(あうん)の呼吸を以て速やかに実現した。即ち昭和21年7月の民間遺族会の発案になる、現在のみたま祭の斎行である。(こぼり けいいちろう)

 

 

 

■ 日本の常任理事国入りに関門

 

 

産経新聞の、古森義久のあめりかノートに「日本の常任理事国入りに関門」が載っていましたので、書き起こして掲載します。

 

こういう具体的な問題点をなぜ置き去りにして、常任理事国入りを語るのか?不思議な政府ですね。

2022/06/30

 

 

日本の常任理事国入りに関門

2022/6/27 10:00 国際米州 古森義久のあめりかノート

 

国際問題評論家 古森義久氏 
国際問題評論家 古森義久氏 

 

古森義久は、日本のジャーナリスト。麗澤大学特別教授。産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員。一般社団法人ジャパンフォワード推進機構特別アドバイザー。国際問題評論家。国際教養大学客員教授。ジョージタウン大学「ワシントン柔道クラブ」で指導経験がある柔道家。

 

 

日本の常任理事国入りに関門

 

自分ができないこと、したくないことを他人にやらせる。人間同士の関係ではこんな態度は偽善であり、不公正である。

 

日本が国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指す動きに対し、実は米国側にこうした批判が存在してきた。本気で常任理事国になりたいのなら避けて通れない関門だといえよう。

岸田文雄首相は米国のバイデン大統領が日本の常任理事国入りを支持すると表明した、と誇らしげに発表した。5月23日の日米首脳会談後の共同記者会見で、だった。「改革された安保理において」という前提条件が付いたとはいえ、岸田政権にとっては大歓迎の「バイデン大統領の支持」だった。

 

日米首脳会談を前に歓迎式典に臨む、岸田首相(左)とバイデン米大統領=5月23日午前、東京・元赤坂の迎賓館(ロイター=共同) 
日米首脳会談を前に歓迎式典に臨む、岸田首相(左)とバイデン米大統領=5月23日午前、東京・元赤坂の迎賓館(ロイター=共同) 

 

 

日本は安倍晋三政権下で、集団的自衛権の限定的行使へとかじを切ったが、米国側では長年、日本が現憲法の下で集団的自衛権行使を禁止したままでは、国連安保理に求められる任務を果たせず、常任理事国となるのは偽善だとする反対論が表明されてきた。日本が常任理事国になっても、自国にできない行動を他国に実行させることになるからだという指摘である。国連の平和維持活動、平和執行活動は軍事力の集団行使や軍事的危険を除外できない、という自明の現実への言及でもあった。

 

米側でのこの趣旨の見解で最も明確なのは1994年1月に上院が全会一致で採択した決議だった。ウイリアム・ロス議員(共和党〉とケシト・コンラツド議員(民主党)が共同で提出した決議案は以下の骨子だった。

 

(1)日本は憲法の規定により軍事行動をともなう平和維持や平和執行の活動に参加できないと宣言している。

 

(2)日本が参加できないという国際安保活動なしには国連安保理の通常の機能は果たせない

 

(3)日本が現状のまま常任理事国になった場合、普通の理事国の責任や義務も果たせない。

 

(4)日本は自国ができない国連安保理の軍事行動を決定し、他国に指示して他国の軍人を危険にさらす。   

 

(5)米国は日本が憲法上のこの制限をなくすまでは日本の国連安保理常任理事国入りを支持すべきではない

 

以上の決議の背景には当時のクリントン政権の日本の常任理事国入りへの支持の構えがあった。この2年前、宮沢喜一政権は初めて常任理事国入りに意欲を表明した。だが米議会は明確な反対を示し、日本側に憲法の規定の修正を求めたわけである。常任理事国になりたいならば、まず憲憲法の修正を、という要請だった。

 

その後も米側では同じ趣旨をロス上院議員自身が94年後半に村山富市政権の高官に、2004年には2代目ブッシュ政権のアーミテージ国務副長官が小泉純一郎政権を支える与党幹部にそれぞれ伝えた記録がある。

 

ちなみにロス議員は終戦直後に若き米軍将校として日本占領のGHQ (連合国軍総司令部) に勤務してNHKの放送改革などを進めた知日派であり、日米同盟堅持という立場から日本への友好的姿勢で知られてきた。米側のそんな人物からも日本憲法の欠陥は30年近く前から指摘されていたのである。(ワシントン駐在客員特派員)

 

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